
北宋の2代目の皇帝・趙光義(そうこうぎ、宋太宗)は、お兄さんの趙匡胤(ちょうきょういん)のあとをうけて、979年に北漢(ほっかん)を倒して中原(ちゅうげん)を一つにまとめました。でも、その後もずっと、北にある大国・遼(りょう、契丹/キタン)が持っている燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)を自分の国に戻すことはできませんでした。
燕雲十六州ってどこ?なぜそんなに大事だったの?
燕雲十六州は、今の北京や天津、それに河北省と山西省の北のあたりにあたります。昔からここは、華北平原(かほくへいげん)を守るためにいちばん大切な場所でした。特に長城(ちょうじょう)にそった要所(ようしょ)がたくさんあって、この地域を失うと、馬に乗った遊牧民が中原に簡単に入ってこられるようになります。
この地は938年、五代十国時代(ごだいじっこくじだい)の後晋(こうしん)という国の王・石敬瑭(せきけいとう)が、契丹(キタン)の助けを借りる代わりに渡してしまいました。それからずっと、中原の国は北を守るための大事な拠点(きょてん)をなくしたまま国を作らざるをえませんでした。
趙光義が二回挑んだ北への攻めとその失敗
1. 高梁河(こうりょうが)の戦い(979年)
北漢を倒したすぐあと、趙光義はすぐに北に向かって進軍しました。最初は涿州(たくしゅう)を取って、幽州(ゆうしゅう=今の北京)を囲むなどうまくいきました。でも、遼の将軍・耶律斜軫(やりつしゃちん)がうまく反撃してきたため、宋の軍は大敗しました。趙光義自身も矢でケガをして、ロバの車に乗って逃げるというみじめな結果になりました。
2. 雍熙(ようき)の北伐(986年)
遼の景宗(けいそう)が亡くなって、まだ子どもだった新しい王が即位したのを見て、趙光義は再び大がかりな攻めを仕掛けました。三つの方面から軍を送りましたが、それぞれの部隊がうまく連絡を取り合えず、食料や武器を運ぶのも不安定でした。それに加えて、遼の軍はとても素早く動けたので、岐溝関(きこうかん)の戦いでまたしてもひどい負け方をしました。有名な将軍・楊業(ようぎょう)もこの戦いで命を落としました。
取り戻せなかった本当の理由
1. 軍のしくみが不利だった
北宋は「中で争わないようにすること」を一番大切にして、軍の命令はすべて中央から出すようにしていました。おかげで内乱は減りましたが、現場の将軍が自分で判断して動けなくなり、敵の速い動きに対応できませんでした。また、戦う馬を育てる場所を失っていたので、騎馬の兵士が非常に少なかったのです。
2. 作戦の間違いと焦りすぎ
趙光義は早く勝ちたすぎて、ちゃんと準備ができていないまま出発しました。特に高梁河の戦いでは、兵士たちが疲れきっているのに無理に進めさせたため、戦う力が急に弱まりました。一方、遼の軍は広い草原を使って、素早く動いて戦う方法でこれに対応しました。
3. 地元の人たちの協力が得られなかった
燕雲十六州はすでに契丹の支配になってから40年以上経っていて、そこに住む漢人も遼のやり方に慣れてしまっていました。宋の軍が「助けるために来た」と思われることはなく、情報や物資の面でも不利でした。
その後の歴史:澶淵の盟(せんえんのめい)と靖康の変(せいこのへん)
1004年、宋と遼は澶淵の盟を結びました。宋は毎年、遼にお金や物を送る代わりに、戦争をやめることに決めました。これで、燕雲十六州を返してもらうチャンスは完全になくなりました。その後、女真(じょしん)族が作った金(きん)が遼を倒すと、宋は金と手を組んでこの地を返してもらおうとしました。しかし、逆に1127年の靖康の変で北宋自体が滅んでしまいました。
まとめ
- 騎馬の兵が少なく、長城の防衛ラインを失っていた
- 趙光義の計画のミスと、命令が硬すぎて現場が動けなかった
- 遼の軍が上手に戦えて、地元の人たちも味方してくれなかった
- 中の安定ばかり気にしすぎて、外に向かって強く出られなかった
燕雲十六州を失ったことは、ただ土地を失っただけではありません。これは北宋の国の守り全体を弱くする大きな問題でした。








