
歴史に興味がある人向けに、中国・宋(特に北宋)で重要な役職だった「同平章事」と「枢密使」について、どちらが本当は強かったのかをはっきりと比べてみます。
同平章事ってどんな役職?
正式には「同中書門下平章事」といい、宋のはじめごろに宰相(国のトップの文官)として働いていた人たちのことです。この制度は唐の時代から続いていて、国の政治全体をまとめる一番上の立場でした。
- 所属していたのは中書門下で、これは行政の中心となる機関でした。
- 仕事の内容は、町や村の運営、お金のやりくり、役人の任命など、内政に関することすべてを指揮することでした。
- 役人の中では公式にいちばん上とされていました。
枢密使はどんな仕事をしていた?
枢密使は軍の最高責任者で、枢密院という組織のトップでした。もとは唐の終わりごろに宮中の宦官が担当していましたが、五代十国を経て、宋の時代になると普通は文官がこの役を務めるようになりました。
- 所属していたのは枢密院で、これは軍のことを専門に扱う機関でした。
- 仕事としては、軍の命令を出すこと、国を守るための計画を立てること、兵士の制度を整えること、将校を任命することなど、軍に関係するすべての管理をしていました。
- 宰相と同じくらい重要な「宰執」と呼ばれるグループの一員でした。
実際の力は、どっちが大きかった?
まず結論を言うと、
時代によって違いはあるものの、全体としては「同平章事」の方が強いとされることが多かったですが、軍の話になると「枢密使」が主導権を持っていました。
北宋のはじめ(太祖から神宗の前まで)
宋の国では「二府三司制」というしくみを使っていました。
「二府」とは、行政を担当する中書門下と、軍事を担当する枢密院のことです。「三司」は塩鉄・度支・戸部で、財政や税金などを扱っていました。
同平章事は内政のトップで、枢密使は軍のトップでした。皇帝はこのふたつの力をわけることで、特定の人が強くなりすぎないようにしていました。そのため、お互いに上下関係はありませんでした。
ただし、国を動かす範囲が広かったのは同平章事だったので、影響力はそちらの方が大きかったとされています。
五代十国との違い
五代のころは、枢密使がとても強い権限を持っていて、宰相(同平章事)は名前だけの存在になっていました。
しかし宋の時代には、これを直して文官を中心とした政治(いわゆる文治主義)をしっかり進めました。その結果、枢密使も文官が務めるようになり、軍人が政治を動かすことを防ぐことができました。
元豊の改制(1082年)以降の変化
神宗の時代に制度改革があり、「同平章事」や「枢密使」といった古い呼び名は使われなくなりました。
代わりに、行政のトップには「尚書左僕射」、軍事のトップには「知枢密院事」という新しい役職が作られました。権限の分け方は変わらず、名前だけが新しくなっただけでした。
最後に
同平章事は国の内政をまとめる最高の文官で、政治の中心的存在でした。一方、枢密使は軍のことを全部見る責任者で、国防や戦略の面で大きな力を発揮しました。
単純に「どちらが上」とは言いにくく、役割がはっきりと分かれていたのですが、全体の政治での重みを考えると、同平章事の方がやや優位だったことが多いです。
宋の役人制度は、「力を分散させて、皇帝がしっかり国を握れるようにする」ために作られていました。そのため、見た目は同じくらいに見えるふたつの役職も、実は皇帝の意図でうまくバランスが取られていたのです。





