
西暦192年の冬に山東地方から兗州へ流れ込んできた黄巾の残党は戦う人とその家族を合わせると百万人を越える巨大な集団だったけれど、それに対して曹操の手勢は一万にも満たないほど少なかったので、普通なら追い返すところを彼はあえて全員を受け入れることにして、正史『魏書・武帝紀』に書かれているように三十万人くらいの元気な男たちを選んで「青州兵」という名前をつけ、残りの人たちは畑仕事させて食料を作らせる体制を整えたことで、曹操は一気に中原で一番といっていいほどの軍事力を手に入れることができたのである。
よその部隊とはっきり違っていた五つのポイント
① 二十八年もの間ずっと別の部隊として扱われたこと
ふつう敵から投降してきた兵士たちはバラバラにされて既存の部隊に混ぜられるのが当たり前なのに、青州兵だけは特別扱いを受けて自分たちの名前と編成をそのまま保ち続け、192年に作られてから220年に解散するまでの約四半世紀にわたって独立した一つの単位として存続していたので、このことから彼らが完全な直属の部下というよりは半分くらい連合軍のような立場で扱われていたことがわかるのである。
② 忠誠を誓った相手が曹操ただ一人だけだったこと
青州兵が従っていたのは曹氏の一族でもなく後にできる魏という国でもなくてあくまで曹操という個人だけだったので、そのことがはっきりわかるのが建安25年(220年)に曹操が亡くなった後に起きた出来事で、後を継いだ曹丕に対して彼らは命令も待たずに太鼓を鳴らして勝手に散り散りに去ってしまい、これは「私たちは曹公のためだけに刀を振るったのであって新しい殿様に仕える義理などない」という意思表示そのものだったのである。
③ 親の地位を子が受け継ぐ仕組みで固まっていたこと
さらにこの部隊には父親の立場を息子がそのまま引き継ぐ世兵制というルールが適用されていて、これは一般の徴兵や豪族の私兵とも違うやり方だったので、青州兵は外からの干渉を一切受けない非常に閉じた強固なグループへと固まっていき、そのため他の将軍たちが彼らを自分の指揮下に入れようとしても事実上できない状態になっていたのである。
④ 何度も不祥事を起こしても大目に見てもらえたこと
それに軍の規律を破ることが何度もあったにもかかわらず曹操は決して厳しい罰を与えようとはせず、例えば194年の濮陽の戦いでは呂布の騎馬隊に押し切られて逃げ出し曹操の本隊まで崩壊させてしまい曹操自身も落馬して左手に火傷を負わせたのに責任を問われることはなかったし、197年の宛城での騒ぎでは張繍の急襲で混乱したときに味方の怪我人から服を奪うようなひどいことをしたけれど、于禁がこれを懲らしめようとしたら当人たちが曹操に直接訴えに出て、曹操は于禁の処分を取り消してしまったので、『于禁伝』に「太祖が甘かったから彼らはつけあがって略奪をした」と書いてあるように、この甘やかしさは優しさではなく彼らを手放さないための計算ずくの対応だったと言えるのである。
⑤ 屯田とセットになった自給自足のシステムがあったこと
そして三十万人の兵士の後ろには百万人の家族がいて、この戦わない人たちが畑を耕して食料を作り、それがそのまま軍隊を維持するための費用となっていたので、「人→食料→戦力」という循環する仕組みがあったからこそ官渡の戦いのような長い消耗戦を乗り切ることができたのである。
実際の戦場での姿:最強とは言えない成績
「精鋭を選んだ」という言葉から無敵の部隊だと思われがちだが、実際の戦いの結果はそれほど良くなくて、表にあるように194年の濮陽の役では敵の騎兵の猛攻に耐えきれず潰れて主君を負傷させ陣地まで失い、193年から194年の徐州侵攻では現地の住民から物を奪って民心の離反を早め、197年の宛城の事件では味方に暴行を働いて内部統制が取れていないことをさらけ出してしまったので、つまり彼らの本当の価値は一人ひとりの強さではなく、その圧倒的な数の多さが生み出す戦略的な抑止効果にあったのだと言えるのである。
最後:殿様の死とともに消えたつながり
220年の正月に洛陽で曹操がこの世を去ると、青州兵は新しい体制に従うことを拒んで軍の命令も待たずにそれぞれ故郷へ帰ってしまい、朝廷ではこれを武力で押さえつけようという意見も出たものの結局は何もせずに黙認される形で終わったので、この結末は彼らがはじめから「魏の国の軍隊」ではなく「曹操個人の軍隊」であったことをはっきりと示しており、契約の相手がいなくなればその絆もまた消えてしまうものだったのである。
おわりに:特別な立場が教えてくれる権力のかたち
つまるところ青州兵の特別さというのは、支配する側とされる側の間にできた対等ではない約束事に落ち着くのであって、曹操側は独自の編成や世襲の権利や罪を許す特権を与え、青州兵側は曹操個人への軍事的な奉仕だけを約束し、このお互いに頼り合う関係が四半世紀にわたって続いて北方を平定するための土台となったので。








