孫権の晩年、なぜ疑い深くなったのか?

孫権の晩年、なぜ疑い深くなったのか?

東呉を築いた君主・孫権(そんけん)は、若いころには曹操や劉備と肩を並べるほどの有能な人物として知られていたが、人生の終わりごろになると、『三国志・呉主伝』に「性多猜忌、果於殺戮」と記されるほど、誰に対しても強く疑うようになり、忠誠を尽くしてきた家臣や自分の子どもでさえも、ためらわず処罰するようになった。

1. 年を重ねて心と体の調子が悪くなった

『三国志』などの古い記録を見ると、70歳を過ぎたあたりから、孫権は現実と違うものを見たり感じたりするような症状があったかもしれない。そのため、周りの人々が自分を陥れようとしていると勝手に思い込み、かつて信頼していた家来や親族に対しても裏切りを疑うようになった。これは単に性格が悪くなったわけではなく、年齢とともに脳や神経の働きが弱まったことが影響していると考えられる。

2. 後継者をめぐって起きた兄弟の争い:二宮の対立(にきゅうのたいりつ)

赤烏4年(241年)に、長男で太子だった孫登(そんとう)が亡くなったあと、三男の孫和(そんわ)が次の太子になった。しかし、四男の孫覇(そんはく)も父親にとてもかわいがられていて、「魯王」として事実上同じくらいの地位を与えられていたため、二人を支持する家臣たちの間で激しい争いが始まり、「二宮の争い」と呼ばれるようになった。

最初のうちは孫権もどちらにも加担しないように見せていたが、次第に派閥同士の対立に深く関わり、最終的には孫和を太子の座から下ろし、孫覇を自害に追い込んだ。そのうえ、この争いに関係した有力な家臣たち——特に陸遜(りくそん)——も厳しく罰せられた。陸遜は孫権からの強い詰問に耐えきれず、怒りと悲しみのあまり命を落としたと伝えられている。

3. 密偵を使って人々を怖がらせる政治

晩年の孫権は、「校事(こうじ)」というスパイのような組織を大きく広げ、家臣たちの言動をこっそり調べさせた。このようなやり方は、秦の始皇帝や後の時代の錦衣衛にも似ており、朝廷の中には「いつ何を言われるか分からない」という不安と恐れが広がった。史家の陳寿は『三国志』の中で、「国が滅びた原因の一つは、このやり方にあったかもしれない」と指摘しており、東呉の衰退とこの政治スタイルは無関係ではなかったと考えられている。

4. 側近がうそをつき、本当の声が届かなくなった

年を取った孫権は、正直な意見よりも自分をよく見せてくれる話ばかりを好むようになっていった。楊竺(ようしょ)や全琮(ぜんそう)といった近くにいた家臣たちは、自分の都合のいいように話を曲げ、孫権の疑いをさらに強めるように仕向けた。特に陸遜が亡くなってからは、真実を伝える人がほとんどいなくなり、政治の質は急激に落ちていった。

結論

かつて曹操が「生子当如孫仲謀(子どもを授かるなら、孫仲謀のような人であれ)」とほめたほどの名君・孫権も、長く権力を握り続け、年を取ることで感じる孤独や不安によって判断が鈍り、最後は疑いと恐怖でしか人を統べられなくなってしまった。