
三国時代の東呉(孫呉)では、諸葛瑾(しょかつ きん)、呂蒙(りょもう)、魯粛(ろしゅく)がそれぞれ重要な働きをしましたが、その仕事の内容や周りからの評価、そして孫権の下でどれくらいの位置にいたかにははっきりとした差があります。
諸葛瑾:文官でありながら一番高い役職「大将軍」になった人
諸葛瑾(174年-241年)は蜀漢の丞相・諸葛亮の兄で、東呉に仕えた文官でしたが、戦場での指揮経験はほとんどなく、軍に関する大きな成果もあまり残していません。それでも、政治や外交の面で優れた能力を見せ、孫権から非常に厚い信頼を受けていました。
彼の最後の役職は大将軍・左都護・豫州牧で、性格は穏やかで誠実だったため、孫権と話すときもいつも冷静に忠実なアドバイスを伝えていました。『三国志』を書いた陳寿は、「瑾は内に篤く、外に和す」と評しています。
特に注目すべき点は、文官が「大将軍」という軍のトップの地位についたことです。これは当時の東呉ではめったにないことで、孫権が諸葛瑾をどれだけ頼りにしていたかがよくわかります。
呂蒙:武将として荊州を奪って大きな功績を残した人
呂蒙(178年?-220年)はもとは下級の兵士でしたが、努力と才能で頭角を現し、やがて重要な将軍になりました。
彼の最大の功績は関羽を破って荊州を手に入れたことで、これによって東呉の領土は大きく広がりました。役職としては南郡太守や虎威将軍などを務め、亡くなった後には「孱陵侯(さんりょうこう)」の位を贈られています。『呂蒙伝』には、「学問を好み、戦略眼にすぐれた将」と記されており、単なる戦う人ではなく、知性と計画性を持った武将だったことがうかがえます。
魯粛:国の将来を見据えて外交を進めた戦略家
魯粛(172年-217年)は地方の有力な家の出身で、戦略を考えたり他国と交渉したりする役割を担っていました。
彼が最も力を発揮したのは、赤壁の戦いの前後に劉備と手を組んで孫劉連合を実現させたときです。その後、周瑜の死後にその軍を引き継ぎ、漢昌太守や横江将軍といった要職を務めました。孫権は後に、「子敬(魯粛の字)がいなければ、孤(わし)は天下を争えなかっただろう」と語っており、その貢献がいかに大きかったかがわかります。
三人の立場を比べると、仕事の種類で評価が変わる
| 人物 | 主な仕事 | 役職の高さ | 君主の信頼 | 後世の見られ方 |
|---|---|---|---|---|
| 諸葛瑾 | 政治・外交 | 大将軍(最高) | とても高い | 忠誠心や人柄が重視される |
| 呂蒙 | 実際の戦い | 将軍クラス | 高い | 戦果が中心に評価される |
| 魯粛 | 戦略・外交 | 将軍クラス | 高い | 国の基本方針作りに貢献 |
表面上は諸葛瑾の役職が一番高く、「立場が上」と見えますが、呂蒙と魯粛は「東呉四大都督」(周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜)に数えられており、軍事や長期的な戦略への影響力は非常に大きいです。
一方で、諸葛瑾はこの四大都督に入っていませんが、文官でありながら「大将軍」まで登りつめた唯一の人物です。
結論
軍の働きや国の戦略の大切さで判断すれば、呂蒙や魯粛の方が上になります。しかし、役職の序列や制度の中での位置で見ると、諸葛瑾の方が上です。
つまり、「立場」や「地位」と一言で言っても、武将の戦果を基準にするか、文官の役職をもとに見るかで答えが変わります。東呉はもともと軍事を重視する国だったので、一般的には呂蒙や魯粛の方が有名で影響力が大きいと言えます。ただし、孫権本人にとっては、諸葛瑾のように誠実で頼りになる側近がとても必要だったのです。








