
魏・呉・蜀の三つの国が同時に力をもっていた時代、東呉の重要な役人だった諸葛瑾(しょかつ きん)は、弟である諸葛亮との家族関係をうまく使って、いつも崩れそうな呉と蜀の協力関係を長く保ち続けました。
諸葛瑾ってどんな人? ― 孫権からとても頼りにされた家臣
諸葛瑾(174年~241年)は、字を子瑜(しゆ)といい、今の山東省沂南県にあたる琅琊陽都で生まれました。彼は蜀の丞相・諸葛亮の実の兄であり、後に東呉で高い地位につく諸葛恪の父親でもあります。
建安5年(200年)に中原の戦乱から逃れて江東に移り住み、弘諮の紹介で孫権に仕えるようになりました。彼は正直で落ち着いた性格だったので、孫権から「神交」と呼ばれるほど信頼され、最終的には大将軍・左都護・豫州牧という要職まで務め、東呉の政治の中心人物の一人となりました。
呉と蜀が手を組んだ理由と、そのもろさ
赤壁の戦い(208年)の後、曹操が南へ攻めてくるのを防ぐため、孫権と劉備は一時的に協力することにしました。しかし、この協力には最初から大きな問題がありました。
まず、戦いのあと誰が荊州を治めるかでけんかになりました。また、呉は長江周辺を安全にしたいと思っていましたが、蜀は漢王朝を復活させたいと考えており、目指すものが違いました。さらに、関羽の横柄な態度や、呂蒙が突然荊州を奪ったこと(219年)で、お互いの感情もこじれていきました。
こうした中で、諸葛瑾だけが両国をつなぐ唯一のパイプ役として動くことができました。
諸葛瑾が使った外交の三つの方法
1. 家族関係を使って直接話せるルートを作った
諸葛瑾は弟の諸葛亮と個人的な手紙を送り合い、公式の場では言いにくいことを伝えていました。たとえば、蜀が北伐を計画しているときの呉の不安や、魏に対抗するタイミング、戦いの後の領土の分け方についても、内々に話し合っていました。
この兄弟同士の連絡は、お互いの疑心暗鬼を少しでも減らすための大事な手段でした。
2. 危ないときに自分で会いに行って説得した:夷陵の戦いの前
関羽が呉に殺されると、劉備は激しく怒って復讐のために大軍を率いて攻めてきました(夷陵の戦い、221年~222年)。
そのとき、諸葛瑾は自ら蜀の陣地まで行き、劉備に向かって「荊州の損得は国の問題です。兄弟の情にとらわれて、天下の大義を間違えないでください」と言いました。
この言葉で劉備の怒りを完全に抑えることはできませんでしたが、戦いが長く続くのを少しは防ぐことができました。
3. 孫権に忠実でありながら、無理のないバランスを取った
諸葛瑾は決して蜀寄りではなく、いつも東呉の利益を最優先に考えて行動しました。ただし、その伝え方は強くなく、穏やかで筋の通ったものでした。
たとえば、孫権が一時的に魏に従うことを考えたときも、将来呉と蜀がまた協力できる道を残すよう助言しました。また、諸葛亮が北伐を進めていた時期には、呉も魏に攻撃をかけて、間接的に助けました。
そのため、孫権は「諸葛瑾は自分の都合を考えず、国全体のことを思っている」と感じ、彼の意見をよく聞きました。
歴史から学べることと、今の世界へのヒント
諸葛瑾は戦いで目立つ功績を残していませんので、「何もしていない」と見られることもあります。しかし、同盟を長続きさせるための『静かな仲立ち』の役割は、現代の国際関係でも非常に重要だとされています。
まとめ:諸葛瑾がいなければどうなっていたか
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 特別な立場 | 諸葛亮の兄という他にいないつながり |
| 性格の良さ | 落ち着いていて正直、感情的にならない |
| 政治的な信頼 | 孫権から強く信頼され、蜀側にも理解されていた |
もし諸葛瑾がいなかったら、呉と蜀の同盟は赤壁の戦いの直後に壊れていたかもしれません。彼こそが、三国がバランスよく並び立つ状態を支えていた見えない柱だったのです。








