
三国志が好きな人なら、関羽(かんう)を忠義と強さの象徴として知っているでしょう。でも、小説『三国志演義』で神のように描かれている姿とは違って、正史『三国志』に実際に書かれている関羽の戦いのうまさは、いったいどのくらいだったのでしょうか?
「万人の敵」と呼ばれたのはなぜか
『三国志』を書いた陳寿(ちんじゅ)は、関羽と張飛について「どちらも一万人相手にできるほどの猛将で、当時の虎のような大切な武将だ」と書いています。
「万人の敵」という言葉は、ただ個人として強いという意味ではなく、兵をうまくまとめて戦える指揮官としての力を表しています。曹操の側近だった程昱(ていいく)も、「羽と飛はどちらも一万人に匹敵する戦力だ」と評価しており、敵も味方も関羽の軍事的な能力をとても高く見ていました。
実績①:白馬の戦いで顔良を倒した話
建安5年(200年)、官渡の戦いの一部として「白馬の戦い」が起きました。袁紹(えんしょう)軍の有名な将軍・顔良(がんりょう)が、曹操の軍を囲んでいたのです。
『三国志』にはこうあります:
「羽は顔良の旗を見て、馬を走らせて敵の真ん中に突っ込み、首を取って戻ってきた。袁紹の将軍たちは誰も止められず、白馬の包囲は解けた」
これはただの1対1の勝負ではなく、精鋭の部隊を率いて敵の本陣に奇襲をかけ、敵の指揮官を討ち取るという難しい作戦でした。この勝利のおかげで、曹操は官渡の戦いで有利な立場をつかむことができました。
実績②:襄樊の戦いで水を使って七軍をやぶる
建安24年(219年)、関羽は荊州から北へ進軍し、魏にとって大事な城である襄陽(しょうよう)と樊城(はんじょう)を包囲しました。曹操は名高い将軍・于禁(うきん)と龐徳(ほうとく)を送って救援させました。
しかし関羽は、ちょうどそのころ降った大雨で漢水が増水したのをうまく利用して、水攻めで于禁が率いる七軍(およそ3万人)をほぼ全滅させました。于禁は降参し、龐徳は処刑されました。その勢いは「中原全体を震え上がらせた」とまで記録されています。
この戦いからわかるのは、関羽が陸での戦いだけでなく、船を使った作戦や地形・天候をうまく活かす知恵も持っていたということです。
軍事の弱み:外交や政治への配慮が足りなかった
一方で、関羽が最後に負けた理由もはっきりしています。襄樊を囲んでいる最中、孫権(そんけん)との同盟を軽く見て、呉に対する警戒を怠りました。そのため、後ろから呂蒙(りょもう)に荊州を奪われて孤立し、命を落とすことになりました。
これは、関羽が戦いの技術は高かったけれど、全体を見渡す戦略や仲間との関係を大切にする意識が足りなかったことを示しています。自信がありすぎて柔軟に対応できず、それが蜀にとって大きな損失につながりました。
まとめ:強いけど完璧ではない人だった
- ✅ 良いところ:奇襲や突撃が得意で、陸も水も使いこなせた。敵からも信頼されるほどだった。
- ❌ 悪いところ:政治的な判断や仲間との連携を軽視した。自信過剰が敗北の原因になった。
『三国志演義』に出てくる無敵の英雄とは違い、本当の関羽は人間らしく、優れた面もあれば欠点もある現実的な武将でした。戦いの力は確かによくても、「誰にも負けない」というわけではなかったのです。








