
関羽(かんう)が亡くなったことは、蜀漢(しょかん)にとってとても大きな変わり目となりました。
1. 荊州(けいしゅう)を失って、大事な拠点がなくなる
関羽は荊州を守る責任者でしたが、219年に呉(ご)の呂蒙(りょもう)が「白衣渡江(はくいとかわ)」という奇襲をかけてきて、荊州は呉に奪われ、関羽も逃げた末に処刑されました。
- 諸葛亮(しょかつりょう)の「隆中対(りゅうちゅうたい)」という計画がうまくいかなくなる:もともと益州(えきしゅう)と荊州の両方から魏(ぎ)を攻めるつもりでしたが、荊州を失ったことでその作戦ができなくなりました。
- 北へ攻めるのがずっと難しくなる:その後、諸葛亮が魏を攻めるときは漢中(かんちゅう)からの一方向だけになり、兵や物資を運ぶのも大変になって、作戦の自由が大きく減りました。
2. 蜀漢の強い武将が次々といなくなって、戦力が急に弱まる
関羽は劉備(りゅうび)の軍の中でも特に頼りになる指揮官の一人でした。
- 中心となる武将が短期間でいなくなる:関羽が亡くなったあと、張飛(ちょうひ)も部下に殺され、黄忠(こうちゅう)もすぐに亡くなりました。そのため、すぐ使える優れた人材がほとんどいなくなってしまいました。
- 関羽の直属の兵たちもほぼ全滅する:生き残ったのは廖化(りょうか)くらいで、彼が後で姜維(きょうい)を助ける程度でした。全体として軍の力は大きく落ちてしまいました。
3. 呉との仲がこわれて、夷陵(いりょう)で大きな戦いが始まる
関羽の死は外交にも深刻なダメージを与えました。
- 呉と手を組んでいた関係が完全に終わる:呉が裏切って荊州を奪ったため、蜀漢と呉の協力関係は壊れました。
- 劉備が感情的になって動いてしまう:義兄弟だった関羽の敵を討ちたい一心で、劉備は諸葛亮たちの忠告を聞かずに夷陵へ攻め込みました。
- 負けたことで国全体の力がさらに減る:222年、陸遜(りくそん)率いる呉軍に大敗し、これによって蜀漢の国力はますます弱まり、 decline が早まりました。
4. 政権のまとまりが弱くなり、兵や役人のやる気も下がる
関羽はただ強い武将というだけでなく、蜀漢の中で多くの人に信頼されていた存在でした。
- 上層部が不安定になる:関羽の死とその後の連敗で、兵士や役人たちの政権への信頼が少しずつなくなっていきました。
- 国をしっかり治める力が失われる:劉備が亡くなったあと、諸葛亮が国を支えることになりますが、最初のころのような安定感はもう戻らなくなりました。
まとめ
関羽が亡くなったことは、単に一人の武将を失っただけではありませんでした。作戦、外交、人材、士気のすべての面で、蜀漢は根本から揺さぶられることになりました。その結果、蜀漢は三国の中で一番早く滅びることになります。








