
後漢が終わりに近づいた184年、張角が起こした「黄巾の乱」は東漢王朝をぐらつかせ、その後の三国時代が始まる大きなきっかけになった。この反乱を押さえ込んだ戦いに参加した武将の中には、後に魏・呉・蜀を築くことになる曹操や孫堅、劉備もいて、彼らはここで初めて目立つ活躍を見せ、その後の出世につながっていった。
黄巾の乱って何だった?
黄巾の乱は西暦184年(後漢霊帝の光和7年)に、張角が「蒼天はもうダメだから、これからは黄天の時代だ」と言って全国で起こした農民による大規模な反乱で、反乱軍は頭に黄色い布を巻いていたことから「黄巾軍」と呼ばれた。36か所以上で同時に動き出し、あっという間に広がっていった。
朝廷は中央の軍だけでなく、地方の有力な人にも協力を頼み、その結果、多くの武将が自分の力を示すチャンスを得ることになった。
黄巾を倒した中心人物「漢末三将」
1. 皇甫嵩(こうほ すう)
当時、左中郎将だった皇甫嵩は長社の戦いで波才の軍を火を使って打ち破り、その後も汝南や陳国の黄巾軍を次々と倒していき、さらに広宗で張梁を、下曲陽で張宝を討ち取ったことで、黄巾鎮圧で一番の功績を挙げたとされ、槐里侯に任命された。
2. 朱儁(しゅ しゅん)
右中郎将だった朱儁は最初の戦いで負けたものの、皇甫嵩と手を組んで反撃に出て、南陽の黄巾軍を倒すことに成功し、その功績で西郷侯になり、後の董卓の時代にも重く使われた。
3. 盧植(ろ しょく)
北中郎将として冀州で張角の本隊と向き合い、広宗を囲んでいたが、宮中の役人たちの悪いうわさのせいで途中でやめさせられてしまった。彼は儒学者としても有名で、劉備や公孫瓚の先生だった。
のちに三国の主になる若手たち
曹操は当時、騎都尉として長社の戦いに参加し、皇甫嵩と朱儁を助けて戦い、これが彼にとって最初の軍での実績となり、後の力のもとになっていった。
劉備は自分たちの兵を率いる義勇軍のリーダーとして幽州や青州で黄巾軍と戦い、その功績で安喜県尉に任命されたが、すぐに解任されて、その後は公孫瓚の下で活動することになった。
孫堅は佐軍司馬として朱儁の下で穎川や南陽で戦い、奮威将軍にまで昇進し、自分の軍を築く第一歩を踏み出した。
ほかに関わった有力な人たち
公孫瓚は劉備と同じ先生から学んだ人物で、北の国境でウワンやセンビと戦いながら、青州や冀州に残っていた黄巾軍の残党を次々と倒していき、「白馬義従」と呼ばれる強い騎馬隊を率いて北の地で名を上げた。
陶謙は徐州の長官としてその地域の黄巾軍をしっかり抑え込み、後になって劉備に徐州の統治をゆずったことで知られている。
まとめ
黄巾の乱はただの民衆の反乱ではなく、中央の力が弱まって地方の武将が強くなる大きなきっかけとなった。朝廷が地方の人に兵を持たせざるを得なくなり、その結果、曹操や劉備、孫堅が自分だけの軍と地盤を持つようになっていった。
皇甫嵩、朱儁、盧植の三人は王朝を救った英雄だが、その後の権力争いにはあまり関わらず、むしろ彼らの部下や教え子たちが新しい時代を動かしていくことになった。








