
「劉備が荊州を借りて返さなかった」という話は日本でよく知られていますが、「借荆州(けいしゅうをかりる)」という言い方が実際に起きたことと合っているかは疑問です。
荊州とは何か?その地政学的価値
そもそも「荊州」は一つの都市ではなく、東漢の終わりごろに存在した広い地域で、今の湖北省と湖南省のほとんどにあたり、南陽・南郡・江夏・長沙・武陵・零陵・桂陽といった七つか八つのエリアからできていました。赤壁の戦い(208年)の前は劉表がこの地を治めていましたが、彼が亡くなったあと息子の劉琮が曹操に降ったため、荊州は事実上、曹操の支配下に入りました。しかし孫権と劉備の連合軍が赤壁で勝利したことで、荊州は再び曹操・孫権・劉備の三つの勢力に分けられることになりました。
「借荆州」の実態:何が実際に起きたのか?
1. 劉備が最初に手に入れたのは「荊南四郡」
赤壁の戦いの直後、劉備は自分の軍隊を使って長沙・武陵・零陵・桂陽の「荊南四郡」を平定し、これは誰かから借りたものではなく自分で戦って獲得した土地でした。
2. 問題の中心は「南郡」だった
南郡(中心は江陵)はもともと周瑜が率いる孫権軍が占めていましたが、劉備は益州(今の四川地方)へ進むための拠点としてこの場所が必要だったため、建安14年(209年)ごろ孫権に「南郡を貸してほしい」と頼みました。『三国志・魯粛伝』には「後に劉備が京に行き孫権に会って荊州の都督職を求めたが、魯粛だけが孫権にこれを許すよう勧め、一緒に曹操を防ごうとした」と書かれており、ここからわかるのは劉備がもらったのは「荊州全体」ではなく「南郡」の使いみちだけであり、しかもこれはタダで借りたわけではなく曹操と戦うための政治的な取り決めだったということです。
3. 孫権側の考え:魯粛の戦略
当時の東呉の重要な役人だった魯粛は、曹操と戦うには劉備を味方につけるべきだと考えており、「南郡を渡す」ことで劉備を前線に出して自分たちの負担を減らそうとしたのです。
後の対立と「返す」話
劉備が益州を手に入れた後(214年)、孫権は荊州を返すように求めましたが、劉備は「涼州を取ったら返す」と答えた(『三国志・先主伝』)ため、これは実質的に断っているのと同じで二人の信頼関係はすぐに悪くなり、最終的には呂蒙が奇襲をかけて(219年)関羽が敗れて殺され、荊州は東呉のものになりました。
日本の研究の見方:内藤湖南の意見
日本の有名な東洋史の専門家・内藤湖南は『外国人の眼から見た中国人:諸葛亮』という本で「借荆州という言い方は主に呉の人たちの主張から来ている」と書いており、つまりこれは後から東呉側が自分たちに都合よく話を作ったもので正式な「借りる契約」があったわけではないという考えです。
結論:「借りた」のか、それとも「奪われた」のか?
- 事実の整理:劉備がもらったのは「荊州全部」ではなく「南郡」だけの使いみち。
- 契約はない:文書での約束はなく口だけで話がついただけ。
- 返す必要があったか:同盟が続いている間は返す義務はなかったと考えられます。
- 評価の偏り:「返さなかった」と言われるのは東呉側の見方による後世の評価で本当の歴史とは言えません。
まとめると、「劉備借荆州——有借无还(借りたものは返さない)」という言い回しは『三国志演義』の物語や東呉側の都合のいい話に強く影響された俗説だと言えます。





