
孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)が力を合わせて208年に赤壁の戦いで曹操(そうそう)を破った話はよく知られていますが、この一時的な協力関係はその後どんどん悪化し、やがて呉(ご)と蜀(しょく)が全面的に戦う夷陵の戦い(222年)へとつながっていきます。
1. 手を組んだ理由:二人とも曹操が怖かった
孫権と劉備が一緒に行動した一番のわけは、二人にとって曹操がとても危険な存在だったからです。
208年、曹操が荊州(けいしゅう)を手に入れて南へ攻めてくると、劉備は逃げなければならなくなり、孫権も長江より南の自分の領地を守るのが難しくなりました。こうしたピンチのなかで、諸葛亮(しょかつりょう)と魯粛(ろしゅく)がうまく話をつけて、孫権と劉備は協力することにしました。その結果、赤壁の戦いで曹操の軍を追い払うことができました。
2. 荊州をめぐるもめごと:仲たがいの本当の原因
荊州が大事だったわけ
荊州は長江の中ほどにあって、魏・呉・蜀のどの国にとっても兵を動かすのにも、物資を運ぶのにも、経済を支えるのにも欠かせない場所でした。特に呉にとっては、川の上流から敵に攻め込まれないために、荊州をしっかり押さえておく必要がありました。
「借りた荊州」って本当?
- 劉備は、周瑜(しゅうゆ)が大変な思いをして手に入れた南郡(なんぐん)の一部を「借りた」とされています(これを「借荆州」と呼ぶことがあります)。
- でも実際には、劉備はその後、益州(えきしゅう=今の四川省)を自分のものにして、自分だけでやっていけるようになっていきました。
- 孫権側は最初、劉備がいずれ荊州を返してくれると思って助けていましたが、劉備は「涼州を取ったら返す」と言いながら、結局ずっと返さなかったのです。
こうした信頼の裏切りが、二人の関係に大きなひびを入れました。
3. 湘水の約束(215年):とりあえず分けたけど…
215年、孫権が荊州南部の返却を求めましたが、劉備は応じず、両軍はにらみ合いました。ところが、曹操が漢中(かんちゅう)方面に進出してきたため、劉備は急いで和解を申し出ました。
結局、湘水(しょうすい)を境にして荊州を分けることで落ち着きました:
- 孫権のほう:長沙(ちょうさ)、桂陽(けいよう)、江夏(こうか)
- 劉備のほう:南郡、零陵(れいりょう)、武陵(ぶりょう)
でもこれはあくまでその場しのぎの対処で、根本的な問題はそのまま残っていました。
4. 関羽の攻めと呂蒙の奇襲(219年)
219年、劉備の部下である関羽(かんう)が襄樊(しょうはん)で曹操の軍を攻めました。そのすきをみて、呉の呂蒙(りょもう)が荊州を突然襲いました。関羽は敗れて逃げましたが、後に捕まって殺されました。
この行動は単なる「裏切り」ではなく、呉の国としての安全を考えたら、やむをえない選択でした:
- 関羽が曹操を倒したら、次は呉が狙われるおそれがあった。
- 荊州を失えば、呉は守れなくなる。
5. 仲たがいの本当の理由:目指すものが全然違っていた
| 側面 | 劉備(蜀) | 孫権(呉) |
|---|---|---|
| 目的 | 「漢の国を元に戻す」→中原を一つにする | 「長江のあたりをしっかり守る」→自分の国を独立させて続ける |
| 荊州の見方 | 北へ攻めるための拠点 | 自分の国を守るための盾 |
| 外交のやり方 | 正しさや理想を大切にする | 実際に得になるかどうかを優先する |
つまり、二人の考えていることや大事にしているものがまったく違っていたので、いくら一時的に手を組んでも、長続きしないのは当然でした。
結論
孫権と劉備の関係は、「利益があるときは協力できるけど、ずっと仲良くできるとは限らない」という政治の基本をよく表しています。共通の敵がいるときは一緒に戦えても、お互いの目標が違うと、いつかは別れることになります。








