孫権が夷洲に遠征した本当の目的は何だったのか?

孫権が夷洲に遠征した本当の目的は何だったのか?

230年に孫権は将軍たちを送って「夷洲」と呼ばれる島への遠征を始めましたが、これは中国の歴史で初めて台湾(当時は夷洲と呼ばれていた)に正式な軍隊を送った出来事です。ただしこの行動は単なる冒険ではなく、東呉という国が抱えていた深刻な問題を解決するために計画されたものでした。

夷洲ってどこ?

昔の中国では「夷洲」は東南の海にある島だとされていて、今の歴史の研究では、『臨海水土志』(沈瑩著)や『三国志』の内容から、それが今の台湾と同じ場所だったと考えられています。一方で、「亶洲(たんしゅう)」については日本列島や沖縄諸島を指している可能性もありますが、まだはっきりとはわかっていません。

遠征を決めたわけ:東呉が直面していた大変さ

1. 兵士や働き手が足りなくて困っていた

三国時代(220~280年)に東呉が治めていたのは長江より南の地域でしたが、北の曹魏や西の蜀漢とずっと対立していたため、人手が常に不足していました。特に戦いで亡くなった兵士を補ったり、田畑を耕す労働力を確保したりすることがとても急いでいました。

『三国志・呉書』には次のように書かれています。「(黄龍二年春正月)遣将軍衛温・諸葛直、甲士万人を率いて海を浮かべ、夷洲及び亶洲を求む」

「甲士一万」という人数は当時の東呉の国力からすると非常に多く、これはただ様子を見に行くのではなく、人や物資を現地から連れてくることを目的とした軍事行動だったことがわかります。

2. 新しい土地を開いて海での力を強めたいと思った

内陸での勢力拡大には限界を感じていた孫権は、海を越えて新しい場所を見つけ、そこで使える資源や人材を手に入れようと考えました。それに加えて、南方の島々や東南アジアとの貿易ルートを自分のものにすることも、重要な目標の一つでした。

遠征の結果とその後どうなったか

衛温と諸葛直が率いる船団は数カ月かけて無事に夷洲に到着しましたが、現地の人たちとの衝突や病気の広がりによって多くの兵士が命を落とし、帰国できたのはわずか数千人の現地の人を連れて帰るのがやっとでした。

この結果に怒った孫権は、二人の将軍を「命令に背き、何も成果を出さなかった」として処刑しました。これは、期待していたほど人や物資が手に入らなかったことを意味しており、孫権が本当に欲しかったのは「使える人」だったことがよくわかります。

まとめ

孫権による夷洲遠征はドラマのような冒険話ではなく、戦乱の時代に生き残るために必要な現実的な国の作戦でした。彼が探していたのは伝説の宝や不思議な土地ではなく、兵士や農民として役立つ「人」でした。