
宋代の中央官僚制度では、「同平章事(どうへいしょうじ)」が宰相に当たる非常に重要な役職でしたが、その名前や役割は時代とともに変わっていき、特に二府三司制や元豊改制といった制度改革によって実際のあり方は複雑になっていました。
「同平章事」とは何か?
正式な呼び名は「同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)」で、これは「中書省と門下省の長と同じ立場で国政を話し合い、決める」という意味を持ち、事実上の宰相として機能していました。この制度は唐の太宗が貞観8年(634年)に始め、高宗の永淳元年(682年)からは正式な宰相の肩書きとして定着しました。宋代の初期もこれを引き継いでおり、宰相を表す公式な役名として使われていました。
宋代における「同平章事」の本当の力とその制限
1. 行政を任されていたが、扱える範囲は狭かった
北宋の初期には、同平章事が「中書門下(政事堂)」のトップとして国の行政全般を取り仕切っていましたが、宋代は皇帝の力を強くするために宰相の権限をわざと小さくするような仕組みを採用していました。その代表例が「二府三司制」で、この制度では行政を担当する中書門下(長は同平章事)、軍事を扱う枢密院(長は枢密使)、そして財政を司る三司(塩鉄・度支・戸部)がそれぞれ別々に皇帝に直接報告する形になっており、結果として同平章事の影響力は行政分野に限定され、唐代のような広範な権限はまったくありませんでした。
2. 副宰相「参知政事」が力を分けていた
宋の初代皇帝である太祖はさらに、参知政事(さんちせいじ)という副宰相を置いて同平章事の力を抑える工夫をしており、当初は補佐役にすぎなかったこの役職も後に印を持つようになり、実質的に宰相とほぼ同じくらいの地位まで上昇していました。
元豊改制によって「同平章事」は姿を消す
神宗の時代に行われた元豊改制(1082年)は役人制度を大きく見直す改革であり、これによって同平章事は正式に廃止されて、代わりに尚書左僕射兼門下侍郎(左相)および尚書右僕射兼中書侍郎(右相)が新たな宰相として設けられました。一見すると唐代の三省制が復活したように見えましたが、実際には尚書省が中心となって動き、中書省や門下省は補助的な役割にとどまっていました。その後、南宋の初め(建炎3年、1129年)に一度だけ同平章事が復活しましたが、乾道8年(1172年)に再び廃止され、それ以降は「左右丞相」が宰相の正式な呼び名となりました。
結論
北宋の初期から元豊改制の前までは「同平章事」が正式な宰相とされていましたが、二府三司制の導入によって軍事や財政の権限は完全に切り離され、行政だけを扱う立場に留められていました。そして元豊改制(1082年)の後には制度上からも姿を消し、新しい宰相体制に置き換えられました。つまり、「同平章事=宰相」と言えなくもないものの、唐代の宰相と比べるとその実際の力はずっと弱く抑えられており、これは宋代が「文を重んじ、皇帝の権力を強くする」政治を目指していたことをよく示しています。








