王允は董卓を排除した後、なぜ急速に失脚したのか?

王允は董卓を排除した後、なぜ急速に失脚したのか?

192年に呂布と一緒に董卓を殺した王允だけど、二ヶ月も経たないうちに李傕や郭汜に攻められて長安が落ち、自分も処刑されてしまった。涼州の兵を許さなかったことや蔡邕を殺したこと、呂布との仲が悪かったことなど、史料からわかる急な没落の本当の原因をわかりやすく解説します。

序章:栄光から破滅までたった六十日しかなかった

初平三年(192年)四月に司徒の王允が呂布を味方につけて長安でひどいことをしていた董卓を殺したときには都の人たちが酒を持って街中で大喜びして「漢王朝がもう一度盛り上がる」と感じた瞬間だったけど、それからわずか六十日後には王允が城楼から突き落とされて親族十何人かと一緒に命を奪われてしまい、彼らを殺したのは袁紹や曹操のような有名な群雄ではなくて董卓の手下だった李傕(りかく)や郭汜(かくし)といった下のほうの将校たちだったので、董卓の支配下で三年も耐えて綿密な計画を実行できた人がどうして勝った直後にこれほど簡単に崩れてしまったのかをこれから史書を使って四つの大きな失敗として調べていきます。

一、涼州軍団を許さなかったことが一番ひどい判断ミスだった

王允が権力をなくした一番の理由は董卓の配下だった涼州の部隊を許さなかったことにあって、董卓の勢力は一人で成り立っていたわけではなくて李傕・郭汜・樊稠(はんちゅう)・張済(ちょうさい)といったたくさんの指揮官と数万の兵士に支えられていたから主君が死んだ後に彼らが朝廷に従いたいと言ったのに王允はその願いを断ってしまい、そのときに使った理屈は「同じ年に二回も罪を許すことはできない」という『後漢書』王允伝に書かれているようなものだったけど、この拒絶が致命的になったのは「涼州の出身者はみんな殺される」という噂が都中に広がってそこの兵士たちがすごく怖がってしまったからで、怖くなった兵士たちは賈詡(かく)のアドバイスに従って「一人で逃げたら亭長みたいな人にも捕まってしまうから、それなら軍隊をまとめて長安を攻めて董卓の仇を討つという名目で戦おう」と決めて立ち上がり、進軍中にどんどん兵を集めて数週間で十万規模になった涼州軍が長安を囲んでたった八日間で都を落としてしまったのである。

他のやり方はあったのか

他のやり方はあって、呂布は王允に「涼州の兵士自体には罪がなくて上官に従っただけだから、許さないと怖がって団結して関中が安定しなくなる」と『三国志』呂布伝の裴注引『英雄記』に書かれているようなことを言って諫めたし、涼州軍の中で評判が高かった皇甫嵩(こうほすう)に指揮を任せて懐柔する方法も出されたけど、王允は「関東の袁紹たちに疑われる」と言ってこれを聞かずに結局手元に残った兵力は二万にも満たなかったので反攻作戦に対応できなかったのである。

二、蔡邕を殺したことで知識人の支持を完全に失った

涼州軍への対応が軍事面の間違いだとしたら蔡邕(さいよう)を殺したことは政治的に自分を滅ぼす行為で、蔡邕というのは当時最高の学問と書の腕前を持っていた人で後に『三国志演義』で有名になる蔡文姫(さいぶんき)のお父さんでもあり、董卓に無理やり仕官させられた過去があって王允とは昔からの知り合いだったのに、董卓が殺された知らせを聞いたときに王允の家で思わずため息をついたのを見て王允が大激怒して「董卓は国の敵なのにお前は漢の臣下でありながら私情に溺れて国賊のために嘆くなんて逆賊と同じだ」と言って、蔡邕が「刺青と足を切る刑で許してほしい、漢の歴史を書き終えたい」と頼んで役人たちもみんなで助命を願ったのに王允はそれを聞かずに蔡邕を牢屋で死なせてしまったのである。

この処置がなぜ致命的だったのか

蔡邕は天下の文人たちの心の支えだったのでその死が知識層全体の離反を引き起こしてしまい、「蔡邕ほどのすごい人がため息一つで殺されるなら董卓に少しでも関わった人はみんな殺される」という不安が涼州軍を許さなかったことと重なってパニックをもっと大きくしてしまい、太尉の馬日磾(ばじつてい)が「王允の運命は終わった、善い人こそ国の手本だ」と嘆いた通りにこの予言は現実になってしまったのである。

三、手柄を独り占めにして呂布との仲が悪くなり内部がバラバラになった

王允は「董卓を殺した一番の功績は自分にある」と思って政権運営を一人でやってしまって、実際は呂布や士孫瑞(しそんずい)たちの協力なしに董卓暗殺はできなかったのに功績を一人で集めようとして協力者たちの不満を買ってしまい、武人出身の呂布を「一時的に使うだけの道具」と見て政務の相談に乗せなかったから呂布は唯一の実働兵力を持っていたのに王允との信頼関係は全然築けず、太原の名門出身の王允は「武人の集まり」を本能的に嫌がって軍事的な現実よりも儒教的な秩序を優先したからこれは乱世の統治方針として致命的なズレだったのである。

李傕や郭汜が攻めてきたときに王允のもとには頼れる戦力がほとんど残っていなくて、呂布は頑張ったけど前後から敵に挟まれてとうとう負けてしまい、「司徒よ、急いで馬に乗って一緒に逃げよう」という呂布の呼びかけに対して王允は「国の神様が守ってくれるならそれが私の願いだ」と言って長安に残って死ぬことを選んだのである。

四、「董卓を殺せば全部解決する」と思い込んでいた認識の甘さ

王允の根本的な間違いは董卓という個人を殺せばすべてがうまくいくと信じていたことにあって、董卓は確かに暴君だったけど彼を支えていたのは涼州の軍事システムや関中の複雑な権力の仕組みだったから、王允は「首を切れば体も死ぬ」と思ったけど実際は涼州軍という「体」がそのまま残っていて、さらに董卓がやっていた涼州の食糧補給や馬の管理や羌族との取引のネットワークを組み直す計画も持っていなかったので、つまり王允は「クーデターを実行する人」としては一流だったけど「クーデターの後の国を作る人」としては準備が全くなかったのである。

王允が権力を失うまでの流れ

時期 出来事
192年4月23日 王允と呂布たちが董卓を殺してその一族を皆殺しにした
すぐ後 涼州軍を許さないことを決めて、街中に「涼州の人はみんな殺される」という噂が広がった
5月頃 蔡邕を牢屋に入れて殺し、知識人たちが離れていった
6月 賈詡のアドバイスで李傕や郭汜たちが兵を上げて長安に向かって進軍した
6月末 長安が落ちて呂布が逃げ出し、王允は一族と一緒に処刑されて56歳で亡くなった

後世の評価:功労者なのか罪人なのか

王允の評価は中国の歴史の中ではっきりと分かれていて、肯定的な評価としては董卓のひどい政治の下で三年も偽装して耐えてついに国賊を討った忠義と度胸は褒められるべきだというものがあり、否定的な評価としては清代の学者の銭大昭が「王允が李傕たちを許さなかったせいで長安が落ちて漢王朝の滅亡を招いたから、董卓を殺した功績はあるけど漢王室の大罪人でもある」と言い切っているように、「敵を倒す力」と「国を治める力」は別のものであって王允の悲劇はこのことを最も残酷な形で証明した例だと言えるのである。

よくある質問(FAQ)

Q1. 王允はどうして涼州軍を許さなかったのですか?
A. 直接の理由は「一年に二回の恩赦はできない」という形式的な理屈だったけど、その裏には涼州の武人集団への強い不信感と「董卓を殺せば全部解決する」という甘い考えがあったからです。

Q2. 蔡邕の死は涼州軍の反乱と関係がありますか?
A. 直接の因果関係はないけど、「ため息一つで当代最高の学者が殺される」という事実が董卓に関わったすべての人の恐怖を大きくして、反乱を起こすための心理的な土台を作ってしまったのです。

Q3. 賈詡の責任ではないのですか?
A. 賈詡のアドバイスが反乱のきっかけになったのは事実だけど、李傕や郭汜が「もう帰順できない」と追い詰められた状況を作ったのは王允が許さなかったことなので、根本的な原因は王允の側にあるのです。

Q4. 王允は逃げることはできたのですか?
A. 呂布が城が落ちたときに一緒に逃げるように勧めたけど、王允は「天子と国を残して逃げることはできない」と言って断り、長安に残って殺されました。

まとめ:王允の失脚から学べる三つの教訓

  1. 敵を排除することと敵の組織を処理することは全く別の問題であって、董卓を殺しても涼州軍は消えないということを忘れてはいけない。
  2. 恐怖で人を追い詰めると一番危険な形で反撃されるから、許すという選択肢を自分で閉ざしてしまったことが最大の敗因だった。
  3. 手柄を独り占めにすると仲間を失うので、呂布や士孫瑞といった協力者との信頼関係を築くことを怠ったことが、いざというときの孤立を招いたのである。

王允の物語は『三国志演義』では「連環の計」の英雄として描かれているけど、正史を読むと「勝利した後の統治」に失敗した人間の典型的な例であって、歴史から学ぶべきなのは敵を倒す知恵だけじゃなくて倒した後に何をすべきかという知恵なのである。