魯粛の死後、東呉の外交政策にはどのような変化が生じたのか?

魯粛の死後、東呉の外交政策にはどのような変化が生じたのか?

建安二十二年(二一七年)に四十六歳で亡くなった魯粛は孫呉の対外方針を決めた中心人物で、赤壁での連合軍結成から荊州をめぐる交渉まで彼の考えが国づくりの土台になっていたけれど、彼が亡くなったことをきっかけに呉の外交のやり方は大きく変わってしまったので。

1. 生きていた頃のやり方:手を組んで曹操に対抗すること

1-1. 天下三分の計としての「榻上策」

二〇〇年頃に魯粛が主君に対して「漢室をもう一度盛り立てるのはすでに無理だし曹操もすぐには倒せないから、まずは江東の地盤をしっかり固めて様子を見るべきだ」と提案したものが後に榻上策として知られるようになり、これが現実的な国づくりの計画になったのである。

1-2. 劉備のグループとの協力体制

彼が目標にしていたのは強い敵に対応するためのパートナーシップであり、具体的には以下のようなことを行った。

  • 赤壁での連携:諸葛亮たちと力を合わせて共同戦線を作って勝利につなげた
  • 南郡を貸したこと:劉備に土地を渡して北からの攻撃に対するクッションの役割を持たせた
  • 争いを抑えたこと:関羽との緊張が高まったときでも単刀赴会のように直接話をして解決しようとした

魯粛にとっては荊州を預けておくことが自分の国の安全を守るために理にかなった選択だったのだ。

2. 死後の三つの変化:強硬派への移行

2-1. 呂蒙による力での解決路線

後を継いだ呂蒙は前の担当者とは全く違う考え方を持っていて、「関羽は裏切るかもしれないので長い間の友好は期待できず、長江の守りを完成させるためには自分で領有権を握るべきだ」と主張し、この意見は以前から完全な支配を望んでいた孫権の考えとも合ったので穏健派から強硬派への方向転換が決定的なものとなった。

2-2. 同盟の破綻と領土の取り戻し(二一九年)

関羽が樊城攻めに主力を使っている隙を狙って呂蒙は白衣渡江の奇襲を実行して荊州を占領し敵の大将を討ち取ったことで対外の状況は一変し、以下の表のように変化した。

比べる項目 魯粛の時代 呂蒙の時代以降
蜀との付き合い 助け合い 敵対・断絶
荊州の扱い 貸してクッションにする 直接治して要塞にする
魏との距離感 間接的に立ち向かう 一時的に近づく
国の守り方 外部に頼る 自分で守る

2-3. 曹魏への服従と夷陵での勝利(二二一〜二二二年)

復讐の攻撃を恐れた孫権は曹丕に対して臣下の礼をとって呉王に封じられたものの、陸遜が劉備の軍隊を破ると状況はまた動き出し、魏から人質を出すように求められたときにこれを断ったことでつかの間の従属関係も終わりを迎えたのである。

3. 関係の修復とその限界

3-1. 鄧芝の使節派遣と再度の盟約

夷陵で負けた後に蜀の丞相である諸葛亮は鄧芝を送って関係の正常化を持ちかけ、魏との対立がひどくなっていた呉側もこれに応じて二二三年頃に新しい約束が結ばれた。

3-2. 昔のつながりとの違い

形だけの同盟は復活したけれどもその中身は以前とは大きく違っていて、過去の流血事件が両国の間に消えない疑いの心を植え付けたり、荊州の帰属が呉の領土として定まって蜀が請求権を実質的に諦めたり、積極的な共同作戦ではなくてお互いに攻めない条約に近い性質に変わったりしたのである。

4. 路線変更がもたらした良い点と悪い点

短期的なメリット

長江の中流域を完全に手に入れたことで国の守りのラインが強くなり、夷陵での勝利によって蜀の軍事力を大きく削ぐことに成功した。

長期的なデメリット

連帯する気持ちが薄くなったせいで魏に対抗するための連合の機能が低下し、お互いの不信感が共同行動を形だけのものにしてしまい、最終的には三国の中で一番早く滅びる遠い原因の一つになってしまったのである。

おわりに

魯粛が亡くなったことは呉の対外戦略を「曹操に対抗するための連帯維持」から「力による領土確保と自立」へと根本から書き換えるきっかけとなり、呂蒙や陸遜の武勲は一時的な利益をもたらしたけれども同盟の土台を弱らせて長期的な勢力のバランスを崩す結果を招いたので、もし彼が生きていれば歴史は違った展開を見せていたかもしれず、そういう意味でこの死は三国史における最大の分かれ道だったと言えるだろう。