
五代十国時代の936年に後晋を建てた石敬瑭が契丹に譲り渡した華北北部の地域は「燕雲十六州」と呼ばれており、「幽雲十六州」や「幽薊十六州」という別名もあるが、『宋史・地理志』で初めて「燕雲」という名前が登場し、今の北京市や天津市北部、河北省北部、山西省北部に広がる約12万平方キロメートルのこの場所は農耕社会と遊牧社会の境目として長城防衛の中心となっていたため、ここを失ったことで北宋と南宋を合わせた約400年間も北からの攻撃に苦しむことになり、中国史上でも最も大きな領土損失の一つと言われている。
十六州の詳細一覧|山前七州と山後九州
太行山脈を境にして東側の「山前七州」と西側の「山後九州」に分かれており、それぞれの州は以下の通りである。
山前七州(太行山脈の東南側)
| 州名 | 読み | 今の地名 |
|---|---|---|
| 幽州 | ゆうしゅう | 北京市中心部 |
| 順州 | じゅんしゅう | 北京市順義区 |
| 檀州 | たんしゅう | 北京市密雲区 |
| 薊州 | けいしゅう | 天津市薊州区 |
| 涿州 | たくしゅう | 河北省涿州市 |
| 瀛州 | えいしゅう | 河北省河間市 |
| 莫州 | ばくしゅう | 河北省任丘市北部 |
山後九州(太行山脈の西北側)
| 州名 | 読み | 今の地名 |
|---|---|---|
| 新州 | しんしゅう | 河北省張家口市涿鹿県 |
| 嬀州 | きしゅう | 河北省張家口市懐来県 |
| 儒州 | じゅしゅう | 北京市延慶区 |
| 武州 | ぶしゅう | 河北省張家口市宣化区 |
| 蔚州 | いっしゅう | 河北省張家口市蔚県 |
| 雲州 | うんしゅう | 山西省大同市雲州区 |
| 応州 | おうしゅう | 山西省応県 |
| 寰州 | かんしゅう | 山西省朔州市東部 |
| 朔州 | さくしゅう | 山西省朔州市 |
名前の意味:「燕」は東の中心である幽州を、「雲」は西の要所である雲州を指しており、この二つが地域の大きな拠点だったのでこの名前がついた。
割譲の経緯:石敬瑭と契丹との約束(936年)
時代背景
907年に唐が滅んだ後、中原では後梁・後唐・後晋・後漢・後周が次々と入れ替わる「五代十国」という乱れた時代が続いていた。
取引の内容
936年に後唐の河東節度使だった石敬瑭は皇帝の李従珂に疑われて太原で反乱を起こしたが、後唐の軍に囲まれたために北の契丹に助けを求め、その代わりに①契丹の王・耶律徳光を「父皇帝」と呼んで自分は「児皇帝」となること、②燕雲十六州を渡すこと、③毎年絹布30万匹を送ることという三つの条件を出し、契丹の力を使って後唐を倒して後晋を立てた同じ年の11月に約束通り十六州を渡した。
その後の変化
契丹は幽州を「南京析津府」に変えて華北への進出拠点としたため、中原の王朝は燕山と太行山という自然の壁を失って華北平野が遊牧騎兵に対して無防備な状態になった。
この地域の戦略的な大切さ
「中原の入り口」と言われた理由は次の四点であり、一つ目は燕山と太行山脈が自然の城壁になっていて居庸関・雁門関・古北口などの関所を守れば少ない兵で北の騎馬軍団を止められたこと、二つ目は華北で一番の馬の産地であり騎兵を育てるための場所だったこと、三つ目は農業と牧畜が一緒に行われる地域で軍隊の食料を現地で用意できたこと、四つ目は長城防衛線そのものでありここを失うことは「国の守りを捨てる」ことと同じだったことである。
北宋の太宗・趙光義は979年と986年の二回に大規模な北伐を行ったが、高梁河と岐溝関でどちらも大敗し、燕雲なしには華北を守れないことが証明された。
奪還の試みと最後の回復
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 959年 | 後周の世宗・柴栄が北伐をして瀛州・莫州・寧州の三州を一時的に取り戻したが、幽州を攻める前に病気で亡くなり撤退した。 |
| 979年 | 北宋太宗の第一次北伐で高梁河の戦いに大敗した。 |
| 986年 | 第二次北伐(雍熙北伐)で三つの道から攻めたが全て負けた。 |
| 1004年 | 澶淵の盟を結んで奪還をあきらめ、遼にお金を払って平和を保つことにした。 |
| 1122~1123年 | 北宋が金と「海上の盟」を結んで返還を試みたが、金は形だけ返した後にすぐに北宋を滅ぼした(1127年靖康の変)。 |
| 1368年 | 明の太祖・朱元璋が徐達と常遇春に北伐を命じて元の大都(北京)を落とし、大同・居庸関・雁門関を取り戻して約430年ぶりに中原の王朝に戻った。 |
よくある質問
Q1. 「燕」と「雲」は具体的にどこか?
「燕」は今の北京周辺にある昔の燕国の地である幽州を指し、「雲」は今の山西省大同市である雲州を指しており、東西それぞれの中心都市が名前の元になっている。
Q2. 北宋が奪還に失敗した理由は何か?
馬の産地を失ったために騎兵を育てられず平野での騎馬戦で構造的に不利だっただけでなく、遼が幽州を南京として要塞にしており城を攻めるのがとても難しかったからである。
Q3. 今のどの都市が含まれるか?
北京市中心部・密雲・延慶・順義、天津市薊州、河北省の涿州・河間・任丘・張家口(涿鹿・懐来・宣化・蔚県)、山西省の大同・応県・朔州が含まれている。
Q4. 失ってから戻るまで何年かかったか?
936年に渡してから1368年に明が取り戻すまで約432年間かかった。
まとめ
燕雲十六州はただの行政区分ではなく燕山・太行山という自然の壁や軍馬の産地、長城の関所を含む「中原の盾」そのものであり、936年に石敬瑭がここを渡したことでその後400年以上も中原の政権は北の脅威にさらされ続けたため、この地域の行方を理解することは五代十国から明の初めまでの中国の軍事や政治を知るために必要である。





