
儒学の大切な書物として「十三経」はよく知られているけれど、このまとまりができるまでには千五百年近くも時間がかかり、その間に書物の数が増えたり減ったりすることが何度もあって、六経から五経になり、さらに七経や九経、十二経と形を変えていき、一時期は「十一経」というちょっと変わったまとめ方も使われていた。
中でも五代十国時代の後蜀という国で作られた十一経は特に大事な例で、唐の時代に決まっていた十二経の中から『孝経』と『爾雅』の二つを外して、その代わりに『孟子』を新しく経の仲間に入れたという選択の裏には、思想の歴史が大きく変わるきっかけが隠されている。
十一経の正体:どんな書物が入っていたか
選ばれた十一の書物
後蜀の王様だった孟昶が広政年間(938〜965年)に石に文字を刻む仕事を命じたときに選ばれた書物は、次のようなものだった。
| 種類 | 書物の名前 |
|---|---|
| 唐から続く九経 | 『周易』『尚書』『詩経』『周礼』『儀礼』『礼記』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』 |
| 前から加えられていたもの | 『論語』 |
| 新しく経になったもの | 『孟子』 |
唐の十二経とどこが違うか
唐の文宗の時代である開成二年(837年)に完成した開成石経では、九経に『論語』『孝経』『爾雅』の三つを足した十二経という形が取られていたのに対して、十一経はこの十二経から『孝経』と『爾雅』を外して、その空いたところに『孟子』を入れた形になっていて、この入れ替えこそがこのまとめ方の一番大きなポイントだと言える。
十二経 −(孝経+爾雅)+ 孟子 = 十一経
経典の数の変わり方:六経から十三経までの長い道のり
十一経の意味をしっかり理解するためには、もっと長い期間での経書の変化を知っておく必要があるので、ここではその流れを順番に見ていく。
先秦時代の六経(前6世紀〜前3世紀頃)
孔子が整理したと言われる一番最初のテキストは六つあって、『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』というのがそれであり、「六経」という言葉自体は『荘子・天運篇』に初めて出てくる。
前漢の五経(前136年以降)
秦の焚書坑儒によって『楽経』がなくなってしまった(あるいはもともと実物がなかったとも言われる)ため、武帝が五経博士という役職を置いたことで、『詩』『書』『礼』『易』『春秋』の五つが国の勉強の基礎になった。
後漢〜三国時代の七経
五経に『論語』と『孝経』を足した七経というまとめ方が、蜀地方の文翁石室というところで教えに使われた記録が残っている。
唐代の九経(637年以降)
科挙という試験の仕組みが整ってくるのに合わせて、礼に関するものを三つ(周礼・儀礼・礼記)に、春秋の伝を三つ(左伝・公羊伝・穀梁伝)に分けて、全部で九つの書物を経典とし、これが試験の基準になった。
唐代後半の十二経(837年)
開成石経が建てられたことで、九経に『論語』『孝経』『爾雅』を足した十二経という形が公式に決まり、これが唐朝の最後の形となった。
五代十国期の十一経(938年頃〜)
後蜀の孟昶がさっき言った十二経から二つを抜いて、『孟子』を入れて石に刻むように指示したことで、ここで初めて『孟子』が経としての立場を手に入れた。
南宋での十三経完成(12世紀)
十二経に『孟子』を足した十三経が最終的に定着し、朱熹が四書という考え方を打ち出したことともつながって、光宗の紹煕年間に十三経のセットが全て出揃った。
十一経が生まれたわけ:三つの大きな理由
理由その一:なぜ『孝経』を外したのか
『孝経』は十八章しかなくて字数も千八百字くらいの短い文章で、親孝行のやり方をやさしく書いたものに過ぎないため、唐代の科挙でもおまけの科目扱いで本格的な研究対象とは見なされていなかったし、「孝は徳の基本だ」という一つのテーマだけを繰り返すだけで、政治や宇宙のことなど幅広く語る他の経と比べると中身が薄いと思われていた。
さらに、孟昶と宰相の毋昭裔は、思想的にしっかりした書物だけで体系を作りたいと考えていたので、初心者向けの道徳の本よりも重みのある書物を選びたいという気持ちがあったのである。
理由その二:なぜ『爾雅』を外したのか
『爾雅』は古い言葉や動植物・天文・地理などの名前を分類して説明する日本で言う辞書のようなもので、あくまで調べ物をするための道具としての性格が強かった。
この書物は自分独自の思想を持っていないので、他の経を読むための手助けにしかならず、厳密に言えば聖人の教えを書いた「経」ではなくて「伝」や「注」に近い種類の文献だったし、科挙の独立した科目として大事にされることもほとんどなくて、実際には九経を学ぶための辞書としての役割だけに留まっていた。
そのため、編纂した人たちは「経」を思想や哲学の書物だけに絞って、実用的な道具書を外すことで全体のレベルを上げようとしたのである。
理由その三:なぜ『孟子』を経にしたのか
ここが十一経の歴史的に一番大事なところで、もともと諸子百家の一つである子書だった『孟子』が経書に格上げされた背景には、いくつかの要因が重なっている。
まず中唐の文人である韓愈(768〜824年)が『原道』という文章で、儒学の正しい教えを受け継ぐ系譜を「堯→舜→禹→湯→文武周公→孔子→孟子」と示して、孟子を孔子の唯一の後継者だと位置づけたことが、後の昇格運動のスタート地点になった。
また、五代十国は武人が政権を奪い合う乱れた時代だったので、後蜀の支配者は孟子の言う「仁政」や「民貴君軽」といった考え方を統治の柱に据えたいと思い、この書物を経典に引き上げることで自分の正統性と学問を大切にする姿勢をアピールしようとした。
それに、『漢書・芸文志』以来ずっと「諸子略」に分類されていた『孟子』だったが、中唐以降は単なる諸子の一人ではなく「聖人の道を受け継ぐ人」として再評価が進んでいて、後蜀はこの流れを初めて制度として実現したのである。
十一経が歴史に残したもの
『孟子』を経典にした最初の一歩
この体系は『孟子』を経書として扱った最初の公式な例であり、これをきっかけにして、北宋の熙寧四年(1071年)に王安石が科挙の科目に『孟子』を採用したり、元豊六年(1083年)に孟子へ「鄒国公」の称号が贈られて孔廟での祭祀が認められたり、南宋には朱熹が四書の一つに組み入れて十三経への正式収録が完了したりという展開が続いた。
つまり、後蜀の決断が後の時代の流れを用意したということになる。
蜀石経事業への影響
孟昶が始めた石刻プロジェクト(蜀石経)は広政元年(938年)にスタートし、後蜀が滅んだ後も北宋の手で続けられて、宣和五年(1123年)に『孟子』の補刻が行われ、乾道五年(1169年)に全ての作業が終わって、総字数約百六十万字、石碑千基以上という中国の石経史上最大の規模を達成した。
「選ぶことと外すこと」が目に見える形に
十一経という事実は、儒教の経典がずっと変わらないセットなのではなくて、それぞれの時代の政治や学問の判断によって中身が変わっていく動くシステムであることをはっきりと示している。
なぜ十三経に変わったのか
新しい試みだったにもかかわらず、十一経はずっと続く体系にはなれず、その主な理由は以下の通りである。
| 要素 | 詳しい内容 |
|---|---|
| 政権がなくなったこと | 965年に北宋に併合されたことで、この体系を推し進める主体がいなくなった |
| 『孝経』が戻ってきたこと | 宋代でも道徳教育の基本的な書物として大切にされ続けて、除外したままにすることを正当化できなくなった |
| 『爾雅』が必要だったこと | 経書を読むのに欠かせない訓詁書だったので、学問的に外し続けることができなかった |
| 四書の登場 | 朱熹が『論語』『孟子』『大学』『中庸』を一つにまとめて、十三経全体をカバーする枠組みが求められるようになった |
| 開成石経の伝統 | 唐代に確立した十二経の権威が強くて、完全に置き換えるのは難しかった |
結局のところ、十二経に『孟子』を足すという「できるだけ多くを含める」やり方が最終的な答えになったのである。
経典の数の変化まとめ(一覧表)
| 時代 | 呼び名 | 入っている書物 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 先秦 | 六経 | 詩・書・礼・楽・易・春秋 | 孔子が整理 |
| 前漢 | 五経 | 詩・書・礼・易・春秋 | 楽経がなくなった |
| 後漢 | 七経 | 五経+論語・孝経 | 文翁石室で使用 |
| 唐 | 九経 | 易・書・詩・周礼・儀礼・礼記・左伝・公羊伝・穀梁伝 | 科挙の試験科目 |
| 唐・開成二年 | 十二経 | 九経+論語・孝経・爾雅 | 開成石経 |
| 五代・後蜀 | 十一経 | 九経+論語・孟子(孝経・爾雅を除く) | 蜀石経・孟昶が主導 |
| 南宋 | 十三経 | 十二経+孟子 | 最後に決まった形 |
おわりに:十一経が教えてくれること
十一経はただの通りすがりのリストではなくて、そこには三つの根本的な問いが詰まっている。
一つ目は「経とは何か」という定義の問題で、実用書である『爾雅』や初心者向けの道徳書である『孝経』を経と呼ぶべきかどうかということであり、二つ目は「誰が決めるのか」ということで、中央の王朝だけでなく地方の政権である後蜀も経典のまとめ方を作り変えられるという事実があり、三つ目は「書物の地位は変わるものだ」ということで、『孟子』が子書から経書に昇ったように、文献の評価は時代とともに移ろうということである。
十三経という最後の形は、十一経のような試しと失敗を経てたどり着いた結果であり、経典の歴史というのは書物自身の歴史であるのと同時に、それを受け入れる社会の価値観がどう変わってきたかという軌跡でもあるのだ。





