
戦国時代の後半、趙国(ちょうこく)と秦国(しんこく)はもともと同じ「嬴姓(えいせい)」という名前を持つ国でしたが、中国全体を自分のものにしようとして何度も激しくぶつかり合いました。
1. 閼与(あつゆ)の戦い(紀元前269年)
概要
秦の軍が趙国の大事な町・閼与を攻めたとき、多くの人が「秦には絶対勝てない」と思っていましたが、趙奢(ちょうしゃ)が奇襲を使って見事に打ち破りました。
歴史的意義
- それまで負け知らずだった秦軍に初めて敗北を味わわせた戦い
- 趙国の評判が急に上がり、廉頗(れんぱ)や趙奢のような優れた将軍たちが注目されるようになった
2. 華陽(かよう)の戦い(紀元前273年)
概要
秦軍は魏と韓の連合軍を華陽で破ったあと、趙国にも影響が出るようになり、この勝利によって中原地方への力を広げ、趙国と本格的に争う準備を整えていきました。
注目点
- 白起(はくき)が率いる秦軍が圧倒的な勝利を収めた
- 趙国はこの出来事を見て、秦の脅威を真剣に考えるようになった
3. 長平(ちょうへい)の戦い(紀元前262年~紀元前260年)
概要
上党(じょうとう)地方をめぐって秦と趙が全面戦争を始め、最初は経験豊富な廉頗が守りを固めていたものの、後に若くて自信過剰な趙括(ちょうかつ)が指揮官に変わり、白起の巧みな包囲作戦によって趙軍約45万人が全滅し、降伏した兵士およそ40万人が生き埋めにされました。
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- 長平の戦いで亡くなった人の数
- 趙括が負けたわけ
- 白起による大量処刑
影響
- 趙国は国の力の大半を失って回復できなくなり、戦国時代最大の殲滅戦として知られるこの戦いは、中国統一への大きな転機となりました。
4. 邯鄲(かんたん)の戦い(紀元前259年~紀元前257年)
概要
長平の戦いのすぐあと、秦は趙の都・邯鄲を囲みましたが、趙国は平原君(へいげんくん)の外交のおかげで魏と楚から援軍を引き寄せ、逆に秦軍を追い払って大勝しました。
特筆すべき点
- 「利令智昏(りれいちこん)」という言葉の由来になった出来事
- 他国と手を組んで危機を乗り切った成功例
5. 肥(ひ)の戦い(紀元前233年)
概要
秦の将軍・桓齮(かんき)が趙国北部を攻めた際、李牧(りぼく)が辺境の部隊を率いて応戦し、秦軍を粉砕しました。
李牧の戦い方
- 騎馬を使った素早い動きで敵を翻弄し、わざと後退しておびき寄せたあと一気に反撃する戦法を使いました。
6. 番吾(ばんご)の戦い(紀元前232年)
概要
秦軍が南と北の両方から趙国を攻めてきたとき、李牧は「南は守って北は攻める」という作戦でまず北の敵を倒し、続いて南の敵も追い払い、これが趙国にとって最後の勝利となりました。
歴史的評価
- 李牧の軍事的才能が最もよく発揮された戦いとされており、趙国は一時的に安心できたものの、国全体の力はもう戻らなかった。
7. 趙国滅亡作戦(紀元前229年~紀元前228年)
概要
秦は再び大規模な軍を送って趙国を攻め、敵の策略によって李牧が処刑されると趙軍は指揮系統を失い、王翦(おうせん)が率いる秦軍が都・邯鄲を落として趙王遷(ちょうおうせん)を捕らえました。
最後の段階
- 紀元前222年には残っていた抵抗勢力もすべて倒され、趙国は正式に滅び、秦が六つの国を一つにするための最大の障害が取り除かれました。
まとめ
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 国内の混乱 | 趙武霊王の死後、王位をめぐる争いや内部のいざこざが続いた |
| 有能な人を無駄にした | 廉頗や李牧といった優れた将軍を追放したり殺したりしてしまった |
| 地の利が悪かった | 四方を敵に囲まれていて補給が難しく、長引く戦いに弱かった |
| 秦の仕組みがしっかりしていた | 商鞅(しょうおう)の改革で、秦は命令が通りやすく強い国になっていた |








