
戦国時代に秦で活躍した将軍・白起は、長平の戦いが終わったあと趙の都・邯鄲を攻めるのを断ったため、秦の王・昭襄王から自害を命じられました。
1. 白起ってどんな人?
白起(?–紀元前257年)は、戦国時代の秦に仕えていた有名な武将で、「武安君」とも呼ばれていました。伊闕の戦いで韓と魏の連合軍を破ったり、楚の首都・鄢郢を落としたりするなど、多くの勝利を収めました。特に知られているのは長平の戦い(前260年)で、趙の兵士およそ40万人を包囲して降伏させたうえ、ほとんどを生き埋めにしたことです。
2. 長平で勝ったあとの秦の動き
長平で趙の主力をほぼ全滅させた直後、白起はすぐに邯鄲を攻めて趙を完全につぶそうとしましたが、秦の王・昭襄王は宰相の范雎の話を聞いて、一時的に戦いをやめる決断をしました。その背景には、范雎が「白起が趙を滅ぼしたら自分の立場が危なくなる」と心配したことや、趙と韓が土地を渡すと申し出てきたので、とりあえず和平を選んだという事情がありました。この判断に白起は強く反発し、范雎との関係はどんどん悪くなっていきました。
3. 再び始まった邯鄲攻めと白起の拒否
翌年(前259年)、趙が約束した土地を渡さないばかりか、他の国と手を組んで秦に対抗し始めたため、秦は再び邯鄲を攻めることにしましたが、最初に指揮をとった王陵はうまく戦えず、秦軍はたくさんの兵を失ってしまいました。そこで昭襄王は白起に「お前が総大将になって出陣してくれ」と頼みましたが、白起はこれを断りました。その理由は、軍事的にはすでに邯鄲を攻める良いタイミングを逃しており、魏や楚が援軍を送る気配があるうえに、秦軍自身も長平の戦いで疲れ切っていて補給も不安定だったからであり、政治的には、前回の停戦が自分を無視した范雎の策略だと感じていたことや、王が自分を都合よく使うだけだと思っていたからでした。
4. 死を命じられるまでの流れ
その後、指揮を王齕に代えても秦軍は邯鄲を落とせず、魏と楚の連合軍に敗れてしまいました。この敗報を聞いた白起は、「王が私の提案を聞かなかったから、こんな結果になったのだ」と言ったと『史記』に書かれています。この言葉が昭襄王の怒りを買い、白起は位を下げられて左庶長になり、陰密への追放を言い渡されました。しかし、追放の途中で使者が追いつき、剣を渡されて自害を命じられ、白起は「私は天に対してどんな悪いことをしたというのか」と言い残して、自分で命を絶ちました。








