
紀元前260年に起きた長平の戦いは、中国の戦国時代で一番規模が大きかった戦いで、趙という国がそれまで持っていた力をほぼすべて失うきっかけとなりました。この戦いで趙はおよそ40万人の兵士を失ってしまい、その後は秦という国に太刀打ちできなくなりました。
1. 長平の戦いってどんな戦いだった?
- いつ:紀元前262年から紀元前260年まで(本格的な戦闘は紀元前260年)
- どこ:今の中国・山西省晋城市高平市あたり
- だれとだれが戦った:秦(しん)と趙(ちょう)
- 結果はどうだった:秦が大きく勝ち、趙の兵士約40万人が戦死するか、生きたまま埋められた
これはただの国同士のけんかではなく、「中国が一つの国になるか、ずっとバラバラのままか」を決めるようなとても大事な戦いでした。
2. 戦う前の趙はとても強かった
趙は昔、趙武霊王という王が「胡服騎射(こふくきしゃ)」という改革を進めたおかげで、北にいる遊牧民のような馬を使った戦い方を取り入れて、軍の力がぐっと上がりました。特に馬に乗って戦う兵士(騎兵)は他のどの国よりも強く、秦と並ぶくらいの大国になっていました。
3. 戦いが始まった直接のきっかけは上党(じょうとう)をめぐるもめごと
韓という国の領土だった上党郡が秦に攻められました。韓はもう守れないと思って、その土地を趙に渡しました。趙がそれを受け取ったことで、秦と全面的に戦うことになりました。
上党はとても重要な場所で、趙がここを押さえていれば、秦が東のほうに広がるのを止められるため、どちらの国も譲ることができませんでした。
4. 軍の大きなミス:指揮官を廉頗から趙括に変えたこと
最初、趙は経験が豊富な将軍である廉頗(れんぱ)を使って、じっくり時間をかけて秦を疲れさせる作戦をとっていました。しかし、秦が「廉頗は怖くないけど、趙奢の息子・趙括(ちょうかつ)ならこわい」というウソの話を流したのです。趙の王はそれを信じてしまい、趙括を総大将に任命しました。ところが趙括は本でしか戦い方を学んでおらず、実際の戦場での経験がほとんどありませんでした。そのため、白起(はくき)が率いる秦の軍に囲まれて補給が途切れ、全滅してしまいました。この人の使い間違いが、趙の負けを決めてしまいました。
5. 戦いのあとの趙はもう元に戻れなかった
当時の趙の人口は300万〜400万人くらいとされていますが、そのうち若い男40万人を一度に失ったことで、働き手も兵士もいなくなってしまいました。また、優れた将軍だった廉頗は国を追われ、後に李牧(りぼく)という新しい将軍が登場しましたが、彼も後で罪を着せられて殺されてしまいました。ほかの国々も趙が弱ったのを見て協力しなくなり、秦はどんどん強くなっていきました。この戦いのあと、山東六国(さんとうろっこく)と呼ばれる国々はどれも秦に勝てず、中国が一つになる道が現実的になっていきました。
まとめ
長平の戦いは、ただ「負けた戦い」ではありません。国として生きていける力そのものを失ったとても大きな出来事でした。趙はこの戦いで将来の希望をなくし、秦は中国を一つにする道を歩み始めました。








