
1619年に起きたサルフの戦いの前まで、明の万暦帝(明神宗)が遼東地方をしっかり動かせていたかどうかは、歴史の大きな問題です。軍のこと、政治のこと、お金のことを全部合わせて考えると、「名前だけは治めていたけど、本当の力はもうなくなっていた」と言えます。
サルフの戦いって何だった?
1619年(万暦47年)、明王朝とヌルハチが率いる後金との間で大きな戦いがありました。これが「サルフの戦い」です。明は全国から兵士を集めて、朝鮮や葉赫部の助けも借りて、合計でだいたい11万人(一部の記録では47万人とも)の軍を動かし、四つの方向から後金の本拠地・赫図阿拉を攻めました。
しかしヌルハチは、「敵がどこから来ても、自分は一つの道からだけ攻める」というやり方で応じ、わずか5日間で明軍の主力三つを壊滅させました。この負けによって、明は遼東での優位を完全に失いました。
背景①:李成梁とヌルハチの特別なつながり
サルフの戦いの前、遼東の実権はずっと李成梁(り せいりょう)が握っていました。彼は万暦朝の最初のころから30年近く、遼東総兵官として強い影響力を持っていて、「遼東の土皇帝」とも呼ばれていました。
ここで大事なのは、李成梁が若いヌルハチを「養子」や「家来のような人」として守っていたことです。1583年、ヌルハチの祖父と父が明軍の誤射で亡くなったとき、李成梁は彼を自分の軍に入れて、兵法や馬の上からの弓の使い方などを教えました。その後も、李成梁はヌルハチを「忠実な女真のリーダー」として朝廷に紹介し、役職や土地をもらえるように手助けしました。
このような「敵を育てて自分の地位を守る」やり方(養寇自重)は、宋一韓や熊廷弼などから批判されましたが、万暦帝は李成梁を信じ続けました。そのおかげで、ヌルハチは明の支援を受けながら他の女真のグループをまとめて、1616年に後金という国を建てました。
ポイント: 李成梁は1615年に亡くなりましたが、その直後にヌルハチは反乱を起こしています。これは、李成梁が生きている間は、ヌルハチが「明の中の味方」と見られていたことを示しています。
背景②:万暦帝のサボりと軍やお金の問題
万暦三大征(寧夏の乱、播州の役、朝鮮出兵)のせいで、国の財布は空っぽになりました。特に壬辰倭乱(1592–1598)では、遼東の精鋭部隊がたくさん朝鮮半島に送られ、帰ってきた兵士は4万人にも満たなかったとされています。
また、万暦帝は1580年代の後半から報告書を読まない「サボり」を始め、役人の補充もしなくなりました。そのため、遼東経略使などの重要なポストが長い間、誰もいないままになっており、中央からの命令や管理はほとんど機能していませんでした。
1618年、ヌルハチが「七大恨」を出して明への反抗を宣言し、撫順と清河を取ったことで、朝廷はようやく危機に気づきました。そこで楊鎬(よう こう)を新しい遼東経略使に任命しましたが、軍資金は足りず、武器や装備も古びており、将軍たちの連携もうまくとれていませんでした。
結論:見た目と現実の違い
- 形だけを見れば、万暦帝は1619年まで遼東を治めていたことになっています。役所も残っていて、命令も出されていました。
- でも実際には、次のような状態で、本当の支配力はもうありませんでした:
- 地元の軍のグループ(李成梁の一族など)が勝手に動いていた
- 中央からの監督や指示がうまく働いていなかった
- お金と兵站(へいたん)の仕組みが弱まり、長く戦うことができなかった
- 明の中で育ったヌルハチが、自分で国を立てるほど強くなっていた
つまり、サルフの戦いの前から、万暦帝は遼東を実際に動かす力を持っていなかったのです。この戦いは、その事実を世の中に知らせる「終わりの合図」だったと言えます。







