飛白書はなぜ明清以降、次第に失われていったのか?

飛白書はなぜ明清以降、次第に失われていったのか?

飛白書(ひはくしょ)は中国の書道の中でとても変わった書き方で、後漢の終わりごろに蔡邕(さいよう)が始めたと言われています。唐や宋の時代には皇帝や文人たちの間でよく使われていましたが、元・明・清と時代が進むにつれて、だんだんと見られなくなっていきました。

飛白書ってどんな書き方?

飛白書の特徴は、筆で書いた線の中に白いすきまやかすれが入っていることです。北宋の学者・黄伯思(こうはくし)は『東観余論』という本で、「細くて白い線がつながっている様子を『白』と呼び、それが空を飛んでいるように見えるので『飛』と名付けた」と書いています。普通の墨書きとは違って、わざと筆に墨を少なめにつけて、線を途切れさせたりぼんやりさせたりするため、見た目がとても目を引きます。そのため、宮殿の看板や墓の題名など、人目に付きやすくしたい場面でよく使われました。

唐と宋:飛白書がいちばん人気だったころ

飛白書は特に唐と宋の時代に盛んになりました。唐の太宗や則天武后、宋の太宗や仁宗といった皇帝たちも自分で書いて楽しんでおり、式典や人に贈る品にもこの書き方が使われました。清代にまとめられた『飛白録』(陸紹曾・張燕昌編)には、宋の時代だけで30人以上の飛白書が上手な人が記録されていて、これはどの時代よりも多い数です。当時は、飛白書はただの飾りではなく、立派な芸術として認められていました。

明清の時代に減った三つのわけ

1. 見た目が派手すぎて「本物の書道」として認められにくくなった

飛白書は見た目がきれいすぎるため、「工芸品みたい」「絵に近い」と思われることが多くなりました。一方で、宋のあとから文人たちは、字を通じて自分の気持ちや性格を伝える「写意(しゃい)」を大切にするようになりました。飛白書は文字の意味よりも見た目の効果を重視するので、「本当の書道じゃない」「ただの遊びだ」と考える人が増え、有名な書家たちもあまり書かなくなりました。

2. 木版や石碑に正確に写すのがほぼ不可能だった

飛白書にはもう一つ大きな問題がありました。それは、かすれや白いすきまがあるため、木や石に彫るのがとても難しかったことです。そのため、この書き方を学ぶには、実際に昔の作品を直接見るしか方法がありませんでした。しかし、紙や絹に書かれたものは時間がたつと傷みやすく、南宋のあと続いた戦乱や、元・明・清の時代の混乱で、多くの作品が失われてしまいました。

3. 材料が高くて、日常では使いにくかった

飛白書は大きい字で書くことが多く、高価な絹やたくさんの紙が必要でした。また、木の皮などで作った特別な筆を使うこともあり、普通の人にとってはとても手が出せない趣味でした。明の時代以降、印刷技術が進歩してシンプルで実用的な書き方が広まると、飛白書のような豪華で使いにくい書体は、次第に時代に合わなくなっていきました。

さいごに

飛白書は、人の好みの変化、技術の限界、社会の動きという三つの理由で、明清の時代にほとんど姿を消してしまいました。でも、この書き方は中国の書道がどれだけ多様で工夫に富んでいたかを示す貴重な例です。