
燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)というのは、今の北京や天津、それに河北省と山西省の北部にあたる地域で、中国の中世では南北の勢力が激しく争ったとても大事な場所でした。この地は938年に後晋の石敬瑭(せきけいとう)が契丹(後の遼)に渡してしまい、それから432年もの間、中原の政権から離れっぱなしでした。しかし1368年に明が国を建てて、ようやく燕雲十六州は中原の支配に戻ることになりました。
燕雲十六州の場所とその大切さ
燕雲十六州は幽州(今の北京)と雲州(今の大同市)を中心とした16の州からなり、燕山山脈と太行山脈に囲まれた天然の要塞のような地形になっています。遊牧民の騎馬軍が華北平野に入ってくるのを防ぐ「中原の盾」として、古くから非常に重要な役割を果たしてきました。
唐代の詩人・王維(おうい)も「燕雲を失えば、中原は必ず危なくなる」と書いており、昔の人たちもこの地の価値をよく理解していました。
契丹への譲渡:石敬瑭の行動(938年)
五代十国時代の混乱の中で、後晋の初代皇帝・石敬瑭は後唐から独立するために契丹の力を借りる必要がありました。そのため彼は契丹の皇帝・耶律徳光(やりつ とっこう)を「父皇帝」と呼ぶ代わりに、燕雲十六州を契丹に手渡しました(938年)。この出来事によって中原側は北からの守りを完全に失い、その後ずっと安全を確保できなくなりました。
北宋の挑戦とその失敗
北宋(960–1127)は建国当初から燕雲十六州を取り戻すことを大きな目標にしていましたが、遼(契丹)はすでにこの地域をしっかり統治しており、農業や都市文化も取り入れて強固な国づくりを進めていたため、簡単には奪い返せませんでした。
たとえば986年には宋の太宗が大規模な遠征(雍熙の北伐)を仕掛けましたが、岐溝関の戦いで大敗を喫しました。そして1005年には宋と遼の間で澶淵の盟という和平が結ばれ、燕雲十六州の領有権を事実上あきらめることになりました。
南宋の時代になると、今度は金やモンゴルとの対立が激しくなり、燕雲十六州を取り戻すチャンスはさらに遠のいてしまいました。
変わり目:元の衰えと明の台頭
13世紀にモンゴルが金を倒して燕雲十六州を手に入れ、この地は元の支配下に入りました。ところが14世紀半ばごろになると、元は内乱や民衆の反乱(紅巾の乱など)で急激に弱体化し始めました。その一方で、朱元璋(しゅげんしょう)が率いる反元勢力が力をつけていきました。
最後の回復:1368年、徐達が大都を落とす
1368年、朱元璋が明を建国するとすぐに、大将の徐達(じょたつ)と常遇春(じょうぐうしゅん)に北へ進軍するよう命じました。同年8月、明の軍は元の首都・大都(今の北京)を攻め落とし、432年ぶりに燕雲十六州全体が中原の政権に戻ったのです。
この成功の背景にはいくつかの理由があります。まず元の政治や軍がとても弱っていたこと、次に明の軍がうまく戦えて士気も高かったこと、さらに民衆が元に不満を持ち明を応援していたこと、そして宋とは違って明は内陸から北へ進める良い位置にいたことが挙げられます。
まとめ:燕雲十六州が戻った意味
燕雲十六州が中原王朝に戻ったことは、単に土地を取り返したというだけでなく、中原の文明が再び一つになり、国を守る体制が新たに整ったことを意味しています。明はその後、万里の長城を改修・強化して北の守りを固めました。








