東廠はなぜ宦官が掌握していたのか?

東廠はなぜ宦官が掌握していたのか?

歴史に興味があるみなさん、こんにちは。今回は「東廠(とうしょう)をどうして宦官が動かしていたのか」ということについて、明の時代に作られたこの特別な組織がどんなふうにつくられ、政治でどんな役割を果たしたのかをわかりやすく説明します。

東廠ってそもそも何?

東廠(正式には「東緝事廠」といいます)は、1420年(永楽18年)に明の3代目の皇帝・永楽帝(しゅてい)がつくった情報収集と治安維持のための組織です。これは世界でも非常に早い段階でできた国直轄の秘密警察のようなもので、当時すでにあった錦衣衛(きんいえい)よりもさらに強い力を持っていました。

この組織は皇帝の直接の命令で動いていて、普通の裁判を通さずに人を監視したり捕まえたり、さらには拷問することさえ許されていました。本部は北京の東安門の北側にあり、朝鮮半島にも小さな拠点がありました。

宦官が東廠を動かすことになったわけ

1. 皇帝が一番信頼していたから

宦官は去勢された男性で子どもを作ることができないため、「自分自身で国を乗っ取る心配がない」と思われていました。永楽帝は外の役人、つまり文官や武将たちをあまり信用しておらず、身近にいて忠実な宦官を頼りにしていました。

2. 靖難の変での活躍があったから

永楽帝(即位前は燕王)が皇位を手に入れるきっかけとなった「靖難の変」(1399~1402年)では、多くの宦官が内通をしたり城門を開けたりして大きな働きを見せました。そのおかげで勝てたので、永楽帝はそれまで禁じられていた宦官の政治参加を認め、東廠という新しい組織を任せるようになったのです。

3. 初代皇帝のルールをわざと無視したから

明を始めた朱元璋(しょげんしょう)は、「宦官は政治に関わってはいけない。守らなければ処刑する」という鉄の掟(おきて)を宮中に置いて、宦官が政治に口を出すことを厳しく禁じていました。しかし永楽帝はそれを無視して、東廠をつくり、宦官に指揮させることで、自分の力を強くすると同時に、外の役人たちを抑え込もうとしたのです。

東廠ができてからの宦官ののびのびぶり

東廠の設立は、明代で宦官がどんどん力をつけていく最初のきっかけとなりました。その後、西廠や内行廠も作られて、「廠衛(しょうえい)」と呼ばれる特務のネットワークが完成しました。劉瑾(りゅうきん)や魏忠賢(ぎちゅうけん)といった影響力の大きい宦官が現れ、朝廷の実権を握るようになっていきました。

特に明の終わりごろには、東廠はただ情報を集めるだけの機関ではなくなり、人事や軍の動き、裁判までも自分たちの思い通りにできる「見えない中心」のような存在になっていました。

まとめ

東廠を宦官が動かしていたいちばんの理由は、それが「皇帝ひとりのためにある私的な力」だったからです。文官や武将は自分の利益や仲間のグループのために動きますが、宦官は皇帝だけに忠誠を尽くす存在でした。

このやり方でしばらくの間は皇帝の力は強まりましたが、時間がたつにつれて制度が腐ったり政治がうまく回らなくなったりしてしまい、結果として明王朝が滅びる原因のひとつになりました。