項羽と劉邦による楚漢の争いは、なぜ4年も続いたのか?

項羽と劉邦による楚漢の争いは、なぜ4年も続いたのか?

秦の国がなくなったあとに天下を取ろうとして西楚霸王の項羽と漢王の劉邦が紀元前二〇六年から同二〇二年まで約四年間にわたって戦ったけれど、項羽が作った十八諸侯の仕組みはすぐにダメになって両方の勢力が本気でぶつかり合うことになったのである。

要素 詳細
続いた期間 前206年秋〜前202年初頭(およそ四年間)
対立の構図 西楚陣営(項羽)対 漢陣営(劉邦)および味方の国々
主な戦場 関中地方・滎陽周辺・彭城・垓下
最後の結果 劉邦が勝って前漢という国を作った

兵力で上回っていた項羽に対してなぜ決着をつけるのに四年もかかったのかというと、その裏にある理由をこれから説明していく。

戦いが長く続いた五つの原因

① 領地の分け方が悪くて揉め事が起きた

前二〇六年に項羽は自分を西楚霸王と呼んで天下を十八の国に分けたものの、このやり方には大きな問題があって、例えば手柄と褒美が釣り合わずに劉邦を遠い漢中へ追い出したり古い六国の貴族たちの願いを無視したりしたせいで斉の田栄や趙の陳餘といった不満を持つ人たちがすぐに反乱を起こし、項羽が斉の鎮圧に手こずっている間に劉邦が「暗渡陳倉」の作戦で関中を手に入れる時間を稼いでしまったから、戦いのきっかけ自体が項羽の政治的な失敗から生まれたのだと言える。

② 彭城での大負けで形勢が振り出しに戻った

前五〇五年に劉邦は五十六万もの大軍を連れて項羽の本拠地である彭城を突然襲って占領したのだが、項羽がたった三万の強い兵士で反撃して漢の軍隊をほぼ全滅させたために、このひどい負けによって劉邦は魏豹や司馬欣などの味方だった諸侯が次々と敵に回り関中の外で取った土地をほとんど全部失って正面から短期間で決着をつける道が閉ざされてしまったので、戦いの状況が最初に戻ってしまい劉邦は長い消耗戦へと方針を変えざるを得なくなったのである。

③ 滎陽と成皋で二年以上もにらみ合いが続いた

前二〇五年五月から同二〇三年八月までの間に両方の軍が滎陽や成皋のあたりで向き合い続けたことが一番長いこう着状態であり、これが長引いた理由ははっきりしていて、漢の側は敖倉という秦の時代の大きな食糧倉庫を押さえて蕭何が関中から補給を続けたおかげで持ちこたえることができた一方、楚の側は攻撃する力はすごくあったけれども要塞の線を完全には破れず、それに項羽が滎陽を落としても劉邦は成皋や鞏県に下がって守りのラインを作り直す柔軟な防御を繰り返したので、この引き分けのような状態が約二年八カ月続いて戦争全体の期間を大きく伸ばしてしまったのである。

④ 韓信が北の方を平らげるのに時間がかかった

劉邦側の勝つチャンスは「項羽を戦略的に囲むこと」にあってそれを任されたのが韓信だったのだが、韓信は前二〇五年に黄河を渡って魏を討ち、前二〇四年に井陘の戦い(背水の陣)で趙を破り、同じ年に外交的な圧力で燕を降伏させ、前二〇三年に暦下の戦いで斉を征服するという一連の遠征に約二年半も費やしたため、韓信が斉を制して項羽の東側を完全にふさぐまで劉邦は正面で耐え続けるしかなく、つまり北の戦線が終わることこそが戦争を終えるための前提条件だったのである。

⑤ 彭越のゲリラ戦と楚の軍の補給の苦しさ

楚の軍の一番の弱いところは補給路にあり、そこで彭越が項羽の後ろにあたる梁地でゲリラ戦をして食糧を運ぶ部隊を何度も襲ったので、項羽は彭越をやっつけるために南へ行けば劉邦が成皋を取り返し、戻ってくれば彭越がまた暴れ出すという悪いループにはまってしまい、軍事面での優位さを「点」の勝利にとどめて「面」での支配に変えられなかったことが根本的な理由なのである。

四年間の主な出来事リスト

時期 出来事 戦いへの影響
前206年秋 劉邦が陳倉を通って関中を平らげた 争いの始まり
前205年春 彭城の戦いで漢の軍が大敗した 長い戦いへの切り替え
前205年夏〜 滎陽・成皋での攻防が始まった 長いこう着のスタート
前204年 韓信が背水の陣で趙を滅ぼした 包囲網が進んだ
前203年 斉を平らげて鴻溝で和約を結んだ 項羽が戦略的に孤立した
前202年初 垓下の戦いで項羽が自刃した 争いの終わり

劉邦が最後に勝てた三つの理由

1. 人を適材適所で使ったこと
蕭何には兵站を、張良には作戦を、韓信には野戦の指揮を任せたのに対して、項羽は范増のアドバイスすら聞かずに有能な人材を活かせなかったのである。

2. ずっと続けられる補給の仕組みがあったこと
関中と巴蜀を後方の基地にした劉邦は蕭何の力で兵隊や物資を絶えず前線に送り続けたのに対し、項羽は彭城を本拠地にしていながらも彭越の邪魔で補給がいつも苦しかったのである。

3. 外交工作で敵を引き離したこと
陳平の離間の計で范増を追放して英布を寝返らせて彭越を味方につけたので、項羽は戦場では勝っても政治的にはだんだん孤立していったのである。

まとめ|四年という期間が持つ意味

楚漢の争いが長引いたのは、ただ「項羽が強かったから」ではなくて、分封の失敗が戦いの種になり、彭城の惨敗が劉邦の速攻プランを潰し、滎陽のこう着が時間を食い、そして韓信による包囲の完成が終戦の条件だったからであり、要するに劉邦側が勝つための条件(戦略的な包囲の達成)そのものに二年以上の工程が必要だったことが四年という長さを決めたのであって、項羽の戦術的な強さを劉邦の構造的な持久戦略が上回った瞬間に、やっと戦いは終わったのである。