漢代は匈奴の侵攻に備えるため、なぜ長城を大規模に拡張したのか?

漢代は匈奴の侵攻に備えるため、なぜ長城を大規模に拡張したのか?

前漢から後漢の時代にかけて作られた防衛線は中国の歴史の中で一番長く、その距離は一万キロメートルにも達して東は朝鮮半島北部の清川江のほとりから西は新疆ウイグル自治区の烏恰県まで続いており、ただ壁を積み上げただけではなくて遊牧民族の匈奴が素早く動けないようにして河西回廊やシルクロードの交易路をずっと守り続けるための国の大きな仕事だったのである。

1. はじまり:悔しい思いを我慢した七十年

白登山での大敗北(紀元前200年)

国を作った劉邦は冒頓単于が率いる軍隊に白登山(今の山西省大同市の近く)で囲まれてしまい七日間も逃げ出せないほどの危険な目にあい、この負けた後の皇室は皇女を嫁がせて毎年たくさんの絹織物や穀物やお金を差し出す和親策という方法を使ってなんとか平和な日々を保つしかなかった。

譲歩するやり方の終わり

  • 馬に乗った兵士たちは国境の線を何度も越えてきて人々や家畜や食べ物を奪い続けたけれど、貢ぎ物を増やしても攻撃は止まることがなく、文帝や景帝の時代(紀元前180〜前141年)になっても根本的な解決方法は見つからなかった。

2. 武帝の反撃と「壁を伸ばす」ことへの切り替え

有名な将軍たちによる大きな攻撃

時期 戦いの名前 得た結果
前127年 河南の役(衛青) 河套の土地を取り戻した
前121年 河西の役(霍去病) 河西回廊を手に入れて渾邪王ら四万人が味方になった
前119年 漠北決戦(衛青・霍去病) 敵の主力を打ち破って「漠南に王庭なし」という状態にした

手に入れた土地を守り続ける難しさ

戦争に勝っただけでは十分ではなくて相手は漠北へ逃げただけだったので、新しく手に入れた河西や河套のエリアを守るためにはそこに住む部隊や物資を運ぶ道やしっかりした守りの施設を整えることが必要であり、だからこそ要塞の線を長くすることは「攻めること」から次の段階である「勝った状態を続けること」へ移るためにどうしても必要なことだった。

3. 壁を伸ばす工事に込められた四つの狙い

① 馬に乗った兵士の強みを使えなくする

遊牧民の強さは速さと自由に動き回れることにあったので、つながった城壁や小さな砦やのろし台のネットワークは大部隊が一気に突破することを物理的に難しくするとともに、少ない人数での侵入でもすぐに気づいて迎え撃てる準備を整えた。

② 「右腕を切る」――河西回廊を完全に自分のものにする

当時の合言葉は「羌胡を離れさせ、匈奴の右腕を切る」だったので、回廊の土地に守りの線を築くことで敵の勢力と西の方にいる羌族とのつながりを断ち切って彼らを東と西にバラバラにして孤立させた。

③ 東と西を行き来する道の安全を守る

河西回廊は都の長安と西域をつなぐたった一つの陸上の通り道だったので、その沿線に武威・酒泉・張掖・敦煌という四つの郡を作って商人たちの旅を守り、要塞は戦いの拠点であるだけでなく国同際の貿易を支える警備の役割も果たしていた。

④ 軍隊と民間が一緒になって開拓する屯田制度を守る

壁の内側に移住してきた人たちを招き入れて軍隊と民間の人たちが一緒に農業をする殖民を行ったので、守りの線はこれらの開拓地を守る外の殻として働いて辺境での食べ物の自給自足を可能にした。

4. 漢の時代の守りの線の作りと大きさ

全体の長さと作った期間

  • 全体の長さ:約一万キロ以上(秦の時代の約二倍)
  • 作った期間:だいたい八十年(前127年頃〜前49年頃)
  • これまでの王朝の中で一番長い守りの線

主な守りのライン

名前 作った年 場所と役割
令居塞 前111年 河西回廊の東の方(令居〜酒泉金塔県)
張掖〜居延塞垣 前102年 河西回廊の真ん中あたり、居延海方面
光禄塞(外の長城) 前102年 陰山の北のふもと〜モンゴル高原の南、二重の守り
居延塞 前102年以降 光禄塞とつながって、西北を守る大切な場所

二重の守りの体制

秦の時代の古い建物を使い直しながら、その北の方に新しい外の線(光禄塞)を追加で作ったので、これで河套や河西の地域が二重の線で囲まれて守りに奥行きが生まれた。

知らせを伝える仕組み

  • 河西回廊ではのろし台の間隔が約二・五キロだった
  • 敵が襲ってきたとき、三十分で約百キロ先まで連絡することができた
  • 小さな城や山の監視所やのろし台が一つになった複雑なネットワークだった

建物の作り方

砂漠の土地では石が足りなかったので、紅柳や蘆葦や胡楊の枝と砂利や黄土を順番に重ねて固めて作ったのだが、敦煌の近くの玉門関の西側にある党谷隧段は下の部分の幅が三メートルで残っている高さが三メートルで今も残っていて、当時の姿を一番よく伝えている。

5. 壁を伸ばしたことで得られた結果

短い期間:南へ下ってくる回数が激しく減った

漠北決戦(前119年)の後、敵は漠南に拠点を置けなくなって守りの線からの圧力もあり、大きな規模での侵攻が難しくなった。

中間の期間:回廊の土地が落ち着いて取引が活発になった

要塞のおかげで河西の四つの郡がしっかりと根付いて、前漢の終わり頃には東と西の間の物の行き来が盛んになった。

長い期間:敵の勢力が従うようになった

前51年に呼韓邪単于が自分で長安へやって来て服従することを申し出て、「上谷の西から敦煌までの辺りの砦を守って、天子の民を休ませたい」と言ったので、これは守りの線が実際の境界線としてちゃんと機能していたことを証明している。

6. よくある勘違いの訂正

間違えた考え方 本当の様子
「敵を完全に止める壁」 馬の速さを弱めて、知らせたり迎え撃ったりする時間を稼ぐ仕組み
「秦の古いものをそのまま使った」 古い線を直しつつ北に新しい線を加えて二重の構造にした
「ただの防御のための施設」 開拓や貿易の管理や連絡を兼ねた総合的なインフラ
「明の時代のものが一番長い」 全体の長さでは漢の時代(約一万キロ超)が一番長い

7. おわりに:「壁」ではなくて「国を動かすシステム」

漢の王朝が大きく壁を伸ばすことにしたのは、ただ怖いと思ったからではない。

  1. 馬に乗った兵士の素早さを仕組みとして封じ込める
  2. 河西回廊をずっと確保して敵を東と西に分ける
  3. シルクロードのお金の価値を守る
  4. 開拓による辺境の自給自足の体制を続ける

これらを同時に成し遂げるための一つにまとまった守りのインフラこそが、漢の時代の長城だったのである。

FAQ(よく聞かれる質問)

Q1. 漢の時代の守りの線の全体の長さは?
A. 約一万キロ以上で、東は朝鮮半島北部の清川江のほとりから西は新疆の烏恰県まで及んでいる。

Q2. どの時代に一番大きくされたか?
A. 漢武帝(在位:前141〜前87年)の時代で、衛青や霍去病の遠征の後に河西回廊と陰山の北に新しい線を作った。

Q3. 秦の時代との違いは何か?
A. 秦の時代は戦国時代の古いものをつないだだけ(約五千キロ)だったが、漢の時代はそれを直しつつ北に新しい線を加えて全体の長さを二倍にした。

Q4. 今も見られる遺跡はあるか?
A. 甘粛省敦煌市の玉門関の周りに保存状態の良いものが残っていて、紅柳と砂利の層の構造が目で見える。