唐粛宗による塩政改革の背景と成果はどのようなものか?

唐粛宗による塩政改革の背景と成果はどのようなものか?

西暦七五八年に安史の乱という大きな戦いがまだ続いていた時に、唐の朝廷はお金が足りない問題を解決するために塩を国だけが売れるようにする「榷塩法」というルールを作り、この仕組みはその後の千年以上も中国の塩の管理方法の基本になったので、ここでは粛宗の時代に起きたこの変化について、なぜ始まったのかから実際にどうなったのかまでを簡単に説明します。

専売制度が始まった理由

戦争で税金が集められなくなったこと

七五五年に始まった大きな反乱が八年間も続いて華北の経済がひどく壊れてしまい、長安と洛陽という二つの都が落とされたせいで物を作ったり運んだりする仕組みが止まって、それまで人頭税として集めていた租庸調という税金がほとんど取れなくなってしまいました。

地方の軍隊がお金を自分のものにしたこと

反乱を鎮めるために新しく作られた節度使という役職の人たちが、自分が治めている地域の税金を中央に送らないで自分たちの軍隊のお金として使ってしまったため、朝廷に届く税金の額は戦いの前の半分以下にまで減ってしまいました。

戦争のためにお金がたくさん必要になったこと

反乱軍と戦うためには兵士の食べ物や武器や給料など莫大なお金が必要になって国庫が完全に空っぽになり、歴史の本には「国の倉は空でネズミさえ飢えている」と書かれるくらい財政が苦しい状態でした。

塩が税金の対象になっていなかったこと

塩は毎日の生活に絶対に必要なもので値段が高くても買わざるを得ない上に、海沿いや塩湖や井戸など決まった場所でしか作れないので管理しやすく、それまでの百四十年間は唐が塩の売買を自由に任せていて税金も取っていなかったため、ここから新しい収入を得ようと考えたのです。

榷塩法の具体的なやり方(乾元元年=七五八年)

粛宗は第五琦という人を塩鉄使という役職に任命して、塩を国だけで売ることを法律で決めました。

項目 やり方
作る 塩を作る人を「亭戸」として特別な名簿に登録し、他の労役を免除して塩作りだけに集中させる
買う 亭戸が作った塩は全て官府が一括で買い取り、民間への直接販売は禁止する
運ぶ 輸送も全て官府が行う
売る 官府が直接売り、値段は一斗あたり百十銭にする(前は約十銭だった)
取り締まる 勝手に作ったり売ったりすることは厳しく禁止し、少しでも見つかったら死刑にする

つまり、「民が作り・官が買い・官が運び・官が売る」という完全に国が管理する仕組みです。

この制度で得られた効果

お金の集まり方が変わったこと

専売が始まるとすぐに塩からの利益が財政の中心になるほど大きくなり、唐の後半には全体の収入の約四割を塩の利益が占めるようになって、戦争のお金や中央政府の維持に役立ちました。

中央の力を強めることができたこと

塩の利益を中央だけが持つことで地方の軍隊が経済的に自立することを防ぐねらいもあり、これは地方の軍閥に対するお金の面での牽制としてある程度機能しました。

出てきた問題点

値段が高すぎて庶民が困ったこと

官塩の値段が前の十倍を超えて跳ね上がったせいで普通の人は買えなくなり、「三ヶ月も塩を食べていない家がある」と記録が残っているほど生活への影響は深刻でした。

闇取引が止まらなかったこと

公的な値段との差が大きすぎたため私塩の儲けがとても高く、重い罰を与えても抑えることができず、「禁止すればするほどかえって盛んになる」という悪い循環が生まれてしまいました。

役所が大きくなり汚職が増えたこと

全国に塩の役所を置いてたくさんの役人を雇った結果、輸送中の損失や給料や中間搾取が塩の値段に上乗せされて、実際に国庫に入るお金は帳簿上の額の半分にも満たない状況になりました。

劉晏による制度の改善(宝応元年=七六二年以降)

第五琦のやり方がうまくいかなくなった中で、代宗の時代に劉晏が塩鉄使を引き継ぎ、根本的な修正を行いました。

  • 運搬と販売を民間に任せること:「官が運び・官が売る」をやめて「商人が運び・商人が売る」に変え、官府は産地での買い上げだけを担当してその後の流通は商人に任せました。
  • 余分な役人を減らすこと:塩の産地ではない地域の塩務衙門を全て廃止して、運営にかかるお金を減らしました。
  • 値段を安定させる仕組みを作ること:遠い場所で塩の値段が急に上がらないように、常平倉という備蓄施設を設置して調整しました。
  • 監視を強めること:私塩を取り締まる専門の監察機関である「十三巡院」を新しく作りました。

これによって塩の利益は就任時の約四十万貫から、大暦末年(七七九年)には六百万貫を超えるまでに約十五倍に増え、官塩の値段は下がり、闇取引はほぼなくなり、朝廷と商人と民衆の三方が得をする仕組みが実現しました。

歴史上の意義

  1. 財政の仕組みが変わったこと:人頭税中心から間接税(専売の利益)中心へと移行するモデルを確立しました。
  2. 後の時代にも受け継がれたこと:宋代の鈔塩制や明代の綱塩制や清末の塩務に至るまで、「民が作り・官が買い・商人が運び・商人が売る」という基本の枠組みが使われ続けました。
  3. 国と市場が協力する形ができたこと:完全な官営から官民協働へと変わったことは、中国政府が市場の仕組みを取り入れた初期の例として評価されています。

まとめ

視点 ポイント
きっかけ 安史の乱で財政が破綻したので塩を新しい収入源として使った
中心人物 第五琦(七五八年)、後に劉晏が改良(七六二年~)
完全専売(榷塩法)から就場専売制へと進化した
成果 塩の利益が歳入の四~五割を占めて唐の存続を支えた
課題 最初は塩価の高騰や闇取引の蔓延や行政の腐敗が深刻だった

粛宗の時代の塩政の変革は戦時財政の緊急措置として始まりましたが、結果として中華圏の国家財政の構造そのものを再設計する歴史的な転換点となりました。