
劉備(りゅうび)が蜀漢(しょくかん)をつくるまでの流れは、中国の三国時代が始まるうえでとても大事な出来事でした。
1. 赤壁の戦い(208年):曹操を倒して孫権と協力する
劉備が自分の勢力を広げ始めたきっかけは、赤壁での戦いです。諸葛亮(しょかつりょう)が「孫権と手を組んで曹操をやっつけよう」という作戦を立て、実際に孫権の軍と一緒に曹操の大軍を破りました。
- その結果、荊州南部を手に入れることができました。
- これは劉備にとって初めてのしっかりした拠点となり、後の三国が並び立つもとになりました。
2. 益州を手に入れる(214年):蜀の地を自分のものにする
赤壁で勝ってから、劉備は益州(今の四川省あたり)に向かいました。当時の益州の長官だった劉璋(りゅうしょう)を降伏させ、成都を新しい本拠地にしました。
- 諸葛亮の『隆中対』で前もって予想されていた大事な場所です。
- 「天府の国」と呼ばれるほど豊かで、周りが山に囲まれているため、安全に国を守ることができました。
3. 漢中の戦いで勝ち、王を名乗る(219年)
曹操と激しく戦って漢中(かんちゅう)を奪い取り、これで益州・荊州・漢中という広い地域を治めることになりました。
- 劉備はこのとき「漢中王」と名乗り始めました。
- まだ皇帝ではありませんでしたが、実際には独立した国のような状態になっていました。
4. 曹丕が漢の王朝を終わらせる(220年)
曹操が亡くなったあと、息子の曹丕(そうひ)が漢の献帝から帝位を譲られて魏(ぎ)をつくったため、東漢王朝は正式に終わりました。
- 劉備の側は「漢の家を再び立て直す」という正しさを強く伝えました。
- 曹魏に対抗するために、自分こそが漢の正しい後継者だと世界中に知らせる必要がありました。
5. 劉備が皇帝になる(221年)
221年5月15日、劉備は成都で皇帝として即位し、「漢」を国号に決めました(のちに蜀漢または季漢と呼ばれるようになりました)。
- 年号には「章武(しょうぶ)」を使いました。
- 自分は中山靖王の子孫で、漢の一族だと強調し、正当性を示しました。
まとめ
劉備が蜀漢をつくったのは、ただ新しい国を始めたというだけではありません。「漢の正統を受け継ぐ」という強い意思を示す行動でした。その後、夷陵の戦い(222年)で負けたり、白帝城で亡くなったり(223年)と苦労もありましたが、蜀漢は諸葛亮が治めて、三国の一つとして続きました。








