孫権はなぜ関羽を裏切って荊州を奇襲したのか?

孫権はなぜ関羽を裏切って荊州を奇襲したのか?

「なぜ孫権は、仲間だった劉備の大事な部下・関羽をだまして、荊州を突然攻めたのか?」——これは三国志が好きな多くの人にとって、ずっと気になっている疑問です。

荊州がどれだけ大切だったか

まず知ってほしいのは、荊州(けいしゅう)がとても重要な場所だったということです。この地域は今の湖北省と湖南省あたりにあって、長江の中ほどを押さえる要所でした。北には曹操の魏、西には劉備の蜀、東には孫権の呉があって、「三国の交差点」とも言える場所でした。誰が荊州を手に入れるかで、天下を取れるかどうかが決まるくらいの価値がありました。

赤壁の戦い(208年)のあと、劉備は孫権から荊州の一部を「借りる」形で治めていました(よく「荊州借地」と言われます)。でも、劉備が益州(今の四川省)を自分のものにして、さらに漢中王を名乗るようになると、孫権の側は「そろそろ荊州を返してほしい」と強く言い始め、二人の関係はどんどん悪くなっていきました。


関羽が北へ攻めたことで孫権が不安になった

建安24年(219年)、関羽は魏の襄陽や樊城を攻めるために大がかりな北伐を始めました。水を使って敵を攻める「水攻め」で魏軍を破り、「中国中がびっくりするほど強い」と評されるほどの勝利を収めました。

しかし、この成功が逆に孫権の心配を大きくしました。

  • 関羽の態度が横柄だった:孫権が自分の息子と関羽の娘を結婚させたいと頼んだとき、関羽は「虎の娘が犬の子に嫁ぐはずがない」と言ってバカにしました。これで二人の信頼関係は完全に壊れました。
  • 荊州の守りが弱くなった:関羽の主力が北に行ったため、南郡(荊州の中心)はほとんど誰も守っていない状態になりました。
  • 魯粛が死んで方針が変わった:孫権と劉備の仲をうまく保っていた魯粛が亡くなり、後任の呂蒙は「呉が生き残るには、絶対に荊州を取り戻さなければならない」と強く主張しました。

呂蒙が考えた作戦と実際の奇襲

孫権は呂蒙の話に納得して、荊州を奪うことを決めました。そのやり方はとてもうまくできていました。

まず、呂蒙が病気になったふりをして、代わりに若い陸遜を立てました。これで関羽は「もう大丈夫だ」と安心してしまいました。次に、兵士たちを商人や普通の人に見せかけて長江を渡らせ、荊州の城々をほとんど戦わずに占領しました(これを「白衣渡江」と言います)。さらに、関羽の部下である傅士仁(ふ しにん)や糜芳(び ほう)を味方に引き入れて、内側から混乱させました。

その結果、関羽は前線から逃げなければならなくなり、麦城まで追い詰められて捕まり、処刑されました(219年12月)。

孫権が本当にしたかったこと:国を守るための現実的な行動

孫権はよく「裏切り者」と言われますが、実際には自分の国・呉を守るために必要な選択をしただけでした。

劉備が益州や漢中に加えて荊州まで手に入れたら、呉は四方を囲まれて動けなくなります。曹操も荊州が欲しかったので、孫権は一時的に魏と協力して、自分たちの立場を有利にしようとしました。そして、荊州を手に入れることで、長江沿いの守りをしっかり固めることができ、その後50年以上も独立した国として続きました。

つまり、これは単なる「裏切り」ではなく、三国がバランスよく続いていくために必要な、冷静で現実的な判断だったのです。

まとめ:三国志の流れを変えた大きな決断

孫権が荊州を奇襲したことは、劉備の陣営にとても大きなダメージを与えただけでなく、呉と蜀の仲を完全に壊してしまいました。長い目で見ると、この対立が魏(後の晋)が天下を取る助けになりました。でも、当時の孫権にとっては、「国を守るための唯一の方法」だったのです。