
南朝宋の第三代皇帝である文帝劉義隆が424年から453年まで続けた統治は「元嘉の治」と呼ばれていて、東晋末期の戦いで江南の田畑が荒れて戸籍も壊れ人々が故郷を離れていたため、新しい皇帝は父や祖父のやり方を引き継いで食料を作ることを国の一番大事な仕事にしました。
「人が国の土台であり食べ物が人の命をつなぐもの」という考え方をもとに三十年間ずっと農業の仕組みを整えた結果、歴史書には「三十年の間、庶民が増えて税金や労役は毎年決まった分だけで済んだ」と書かれるくらい豊かな時代になりました。
七つの主な農業対策
1. 農業と養蚕を勧めること
まず劉義隆は何度も命令を出して地方の役人に農業の指導をさせましたが、具体的には建康の城内の空いた土地に桑の木を植えて宮中の女性たちに蚕を飼わせて全国の手本にしたり、役人が村へ行って土地の開拓や耕作を直接見回る仕組みを作ったりしました。
さらに江南全体で小麦などを育てることを勧めたり、条件の良い場所では斜面を整えて田んぼを作って米作りを盛んにしたり、絹の原料や苧麻・果物・木など副収入になるものの育成も後押ししたりしました。
例えば元嘉八年(四三一年)の命令では、働く意欲が下がったり働かない人が増えたり使われていない土地が残っていることを心配して、すべての役人に対して土地を開くことや副業を支援することを厳しく命じました。
2. 滞納した税金や古い借金をなくすこと
次に戦争が続いたせいで百姓が政府に払えずにいた税金や借金(通租宿債)をすべて帳消しにして、即位した直後から何度も免除の命令を出したり、元嘉十七年(四四〇年)にいろいろな滞納を減らしたり無くしたりするよう指示したり、元嘉二十一年(四四四年)にもう一度たまっていた税金を免除したりしました。
このおかげで農民はまた作物を作れるようになって、荒れた土地へ戻っていく人が増えました。
3. 戸籍を作り直し土断を行うこと
また東晋の頃の義熙土断をもとに人の登録をやり直しましたが、これは北から引っ越してきた「僑人」を生まれた場所ではなく今住んでいる場所で登録し直す制度のことで、白籍という税金や労役が免除される特権をなくして一般の人と同じ黄籍に入れて、お金持ちが隠していた人をみつけて国の税金の対象に戻しました。
これによって働く人を正確に把握できて負担も平等になり、耕す土地の広さや国の収入も増えました。
4. 使っていない土地を開いて土地がない人に配ること
さらに官有の荒れた土地を土地を持っていない人に配ったり、流浪している人が村に戻って仕事を再開するように促して戻った人にはしばらく税金を軽くしたり、山の中や湖の周りなど江南のまだ開けていない場所の開発も積極的に行ったりしました。
5. 水路や治水の設備を大きく修理すること
そして作物を作る土台を強くするために水路の整備に力を入れて、芍陂や六塘堰といったすでにある施設を直したり、丹陽湖のあたりに何百里もの堤防を築いて広い田んぼに水を送ったり、各地で川をさらったり貯水池を新しく作ったりしました。
これで水害や干ばつに強くなって、同じ広さの土地から取れる作物の量が増えました。
6. お金持ちが土地や山・水を独り占めすることを抑えること
一方で南へ渡ってきた身分の高い人たちが山林や水域を自分のものにして庶民の暮らしを苦しめる問題にも対応して、権力者が自然の資源を独占して民が使えないようにすることを抑えたり、何万頃にも及ぶ大きな囲い込み(刁逵などの例)を取り締まったりして、薪を取ったり魚を獲ったりといった日々の生活の手段を守りました。
7. 技術を伝えたり農作業を教えたりすること
最後に農業の技術を広めることにも取り組んで、人を送って深く耕したり丁寧に育てたりする方法や適切な肥料のやり方を教えたり、種をまく時期や品種の選び方についての情報を地方に伝えたり、役人の評価に農業の成果を入れて何もしない人を罰したりしました。
改革によって起きた変化
| 項目 | 様子 |
|---|---|
| 食料 | 土地が広く豊かで民がよく働き、一度豊作になればいくつかの郡が飢えを忘れるほどだった |
| 物価 | 米一斗が数銭まで安くなった |
| 人口 | 登録された家の数が大きく増えて庶民が増殖した |
| 財政 | 国のお倉にある銭は紐に通したまま腐るほどたくさん溜まった |
| 治安 | 役務は楽で事務は簡単で、夜も戸を閉めないほど平和だった |
うまくいった三つの理由
なぜ改革が成功したのかというと理由は三つあって、一つ目は前期に大きな戦争がなく政策を一貫して続けられたこと、二つ目は地方の役人の任期を六年に決めて農業の監督の成果を評価に入れたこと、三つ目は劉義隆が位にいる間ずっと農業の命令を出し続けて施策を一度きりで終わらせなかったことです。
限界と終わり
しかし元嘉二十七年(四五〇年)の二度目の北伐が失敗したのをきっかけに北魏の太武帝拓跋燾が江淮へ攻め込んできて六州がひどい被害を受けて農業改革の成果が大きく傷つき、同三十年(四五三年)に太子の劉劭が父を殺したことで文帝が亡くなり「元嘉の治」は終わりを迎えました。
まとめ:元嘉の農業改革が持つ意味
この時代の農業の立て直しは単に税金を安くしただけではなく、戸籍の再編成から土地の配布・水利の建設・技術の普及・兼併の抑制までがつながった一つのシステムとして考えられていて、乱れた南朝の中でこれほどまとまった農業政策が三十年も続いた例は珍しく、後の時代に理想の政治として語られ続ける理由もここにあります。
よくある質問
Q. 一番大事な施策は何ですか?
A. 農業と養蚕を勧めることと古い借金をなくすことが二本の柱で、これに戸籍の再編成(土断)と水路の整備が加わって生産が回復する土台ができました。
Q. 土断とはどういうものですか?
A. 北から来た移民を実際に住んでいる場所で登録し直して免税の特権をなくし一般の人と同じ負担を求める制度で、働く人の確保や国の収入を増やすことに直接つながりました。
Q. なぜ最後にはうまくいかなくなったのですか?
A. 四五〇年の北伐の敗北と北魏の反撃で江淮が壊滅的な被害を受け、四五三年の宮廷でのクーデターで政治の安定が失われたからです。





