古代中国の攻城兵器「雲梯」は、一体誰が発明したのか?

古代中国の攻城兵器「雲梯」は、一体誰が発明したのか?

雲梯は敵の城壁に兵士を送り込むために作られた大きな登攀器具で、「雲まで届く梯子」という名前の通り戦国時代から明清時代まで何度も改良されて実戦に使われてきたが、普通の梯子とは違って下部に車輪をつけて陣地内を移動しやすくしたり、伸縮や折り畳みの機能を搭載したり、先端に鉤爪をつけて城壁の縁に引っ掛けて固定できるようにしたり、時代が進むと防御板や隠蔽空間も加えられたりするという特徴を持っている。

作った人:公輸般(通称・魯班)

この兵器を最初に作ったのは春秋戦国時代に活躍した公輸般(こうしゅはん)、世に言う魯班(ろはん)だと伝えられていて、彼は中華史上最も有名な工匠として木工・建築・機械など広い分野で新しい成果を残し、後代には「職人の始祖」として尊崇されて各地に彼を祀る廟が建てられている。

『墨子』に残る古い記録

雲梯について最も古く確かな文献である『墨子・公輸篇』には「公輸盤、楚の為に雲梯の械を為り、成りて、以て宋を攻めんとす」と書かれており、この一文から彼が楚国の要請に応じて当該兵器を製作した事実が読み取れるが、当時楚は宋への侵攻を計画していて、攻城能力を大きく向上させる手段としてこれが造られたのだ。

墨翟との対峙——雲梯を止めた人

雲梯の来歴を語る時には墨翟(ぼくてき)、つまり墨子の存在を無視できず、公輸般が楚のために新型攻城器を完成させたと聞いた墨翟は魯から楚の都・郢へ十日十夜歩き続けて楚王と公輸般に出兵中止を説いたが、公輸般は「既に兵器は出来上がった以上、攻撃はやめられない」と拒んだので、墨翟は模擬戦による検証を申し出た。

九度の攻防

公輸般は九通りの攻め手を繰り出したが墨翟は全て防ぎ切って攻め手が尽きた公輸般に対し墨翟の守備策はまだ余裕があり、公輸般は「貴殿を排除する手段はあるが口にはしない」と告げたが、墨翟は「私を殺せば宋の守りが弱まるとお考えだろうが、弟子三百名が既に宋の城壁で待機している」と切り返したので、これにより楚王は侵攻を断念し、これが世に言う「墨子救宋」のエピソードである。

仕組みの変化と発展

戦国時代の原型

戦国時代の雲梯は二節構造の大梯子を車台に載せた形態で全長およそ10メートルと推測され、登攀機能のみを備えた基礎的な設計だった。

唐宋時代の進化

唐代の李筌(りせん)が記した『太白陰経』には改良型の詳細な図説が残っていて、台座に六輪の大八車を採用したり、回転軸により梯子の角度を自由に変更できるようにしたり、上部へ皮革製防護板を設置したり、梯子下部に兵員を匿う隠蔽室を新設したりするなど飛躍的な進化が見られる。

宋代の『武経総要』の記載

宋代の軍事百科書『武経総要』ではさらに多様な派生型が紹介されており、軽量設計で迅速な展開が可能な飛梯や竹材を用い携行性を高めた竹飛梯、複数梯子を連結した超大型仕様の躡雲飛梯などが記録されている。

よくある質問

Q1:魯班一人で発明したのか?

公輸般が原型を創出したとされるが当時の工匠集団による協業の結果だった可能性も高く、また後世の改良は無数の名もなき技術者たちの手によるものである。

Q2:普通の梯子と何が違うのか?

専用攻城兵器として設計されていて移動用台座・防御設備・城壁固定機構などを統合している点が単なる梯子と根本的に異なる。

Q3:実際に戦場で使われたのか?

『墨子』以外にも『淮南子』や後代の兵書に実戦使用の記述があるが、攻撃側の被害が大きくなるため運用にはとても慎重な判断が求められた。

まとめ

雲梯を最初に作ったのは春秋末期に魯国で活躍した名匠・公輸般(魯班)であり、『墨子・公輸篇』によれば彼は楚国の依頼でこれを製作したが墨翟の尽力により初の実戦投入は回避され、その後千年以上にわたり改良が続けられて古代中国攻城兵器の象徴となり。