
建中元年(七八〇年)に宰相の楊炎が中心となって始めた両税法は中国のお金の歴史を大きく変えた出来事でしたが、それまでの租庸調が人の数を基準にしていたのに対して新しい制度は財産や土地をもとに夏と秋の二回に分けて集めるやり方だったため、とても新しい考えだった一方で当時から今に至るまで色々な意見が出続けています。
1. お金で納める決まりが物価を下げて負担を増やしたこと
一番強く批判されたのは税金をお金で払わなければならなくなったことであり、制定された頃は絹二匹半くらいの価値だった戸税が四十年後には同じ金額を納めるために絹八匹も必要になるほど銅銭が足りなくなって「銭重物軽」というデフレが起きて実際の税金の重さが約三倍にまで膨らんでしまった のです。さらに農民は取れた作物を市場でお金に替えるときに商人に安く買い叩かれて二度損をする羽目になり、表向きの税率が変わっていなくても経済の様子が変わっただけで人々が苦しくなる仕組みこそが最大の欠点だと責められました。
2. 陸贄という人物が理論立てて反対意見を述べたこと
翰林学士であった陸贄は同じ時代にとても詳しい反対の考え方を示し、その内容は三つのポイントにまとめられます。
| 批判のポイント | 主な内容 |
|---|---|
| お金の使い方に歯止めがかからない | 使う額に合わせて集める額を決めると限りなく税金が増えてしまう |
| 財産の評価があいまいである | 動産や商売の資産を正確に把握できず脱税や不正な査定が広がる |
| 田舎の暮らしに合っていない | お金が広まっていない場所で銭納を無理強いするのは生産者を潰すひどい政治だ |
彼は昔のやり方に戻すべきだと主張しましたが徳宗皇帝は目の前のお金を確保することを優先したため、この「理想と現実のぶつかり合い」はその後の時代の政策についての話し合いにも長く影響を与え続けました。
3. 税金を一つにまとめる約束が破られて追加の取り立てが当たり前になったこと
始まりのときに政府は「租庸調やその他の雑税を止めて新しい税金に一本化する」と約束しましたが、この話はすぐに守られなくなってしまいました。
- 臨時の税金が乱発されたこと: 戦争の費用や宮廷の経費を理由にして新しい取り立ての項目が次から次へと作られました。
- 地方の役人が自由に上乗せしたこと: 中央への割り当てさえ満たせば現場での追加徴収は見逃される空気が定着してしまいました。
- 何重もの負担が固定されたこと: その結果として農民は正規の両税に加えて昔からの雑役や新しくできた臨時税まで課せられる三重の苦しみに陥りました。
シンプルにすることを目指した改革がかえって税金を集める名目を増やす逆の効果を生んでしまった点は、どの時代の評論家も一様に厳しく批判してきた重要なところです。
4. 貧富の差が広がって土地が一箇所に集まってしまったこと
能力に応じて負担するという原則は皮肉なことに社会の階級を固定化する手助けをしてしまいました。
- 力のある人が優遇されたこと: 広い土地を持つ人は役人とのつながりを使って実際の財産より低い等級で査定されるケースがたくさん起きました。
- 小さな農家が没落したこと: お金での納付に耐えられない小作農は田畑を手放して大地主に従うしかなくなりました。
- 等級の見直しが止まったこと: 三年ごとの戸等の見直しが形だけになり、最初の不公平な査定が長い間そのまま残る地域も出てきました。
公平さを目指した制度の設計が実行段階のゆがみによって弱い人を切り捨てるものへと変わってしまったのです。
5. 中央と地方の権力争いが起きたこと
この税金の仕組みは経済の施策であると同時に安史の乱の後の秩序を立て直すための権力争いでもありました。
- 朝廷の狙い: 全国共通の徴税システムを通して藩鎮の財政的な自立を奪い支配力を取り戻そうとしました。
- 地方の勢力の抵抗: 河北三鎮を含む強い藩は新しい税金の仕組みを拒むか形だけの遵守に留まって独自の課税を続けました。
- 完全ではない妥協: 最終的に政権は既得権益を認めざるを得なくなり統一された税制としての働きは大きく損なわれました。
政治的な譲歩が晩唐の分裂の流れを食い止められなかった背景にはこのような構造的な限界があったという見方が有力です。
結論:進んだ制度と実行の失敗から学べること
両税法についての議論を全体を見ると一つの図式が見えてきます。
制度が進んでいること ≠ 運用が成功すること
資産への課税や貨幣経済への適応という点では確かに近代的な芽を含んでいましたが、通貨の供給の制限や行政の能力の不足や政治的な妥協といった現実の壁に邪魔されて予想外の悪い影響をたくさん生み出してしまったのです。








