鄭和が西洋に航海した本当の目的は何だったのか?

鄭和が西洋に航海した本当の目的は何だったのか?

15世紀のはじめに明の国が行った鄭和(ていわ)による7回の大きな船旅は、世界の歴史でもめったにないほどの大規模な海の遠征だった。だが、この「西洋下り」と呼ばれる航海の本当の狙いについては、今でもいろんな見方があって、はっきりとは決まっていない。

鄭和下西洋って何?

「鄭和下西洋」とは、明の永楽帝から宣徳帝の時代にかけて、宦官(かんかん)の鄭和が率いた7回の遠く離れた海への旅のことだ。この航海は1405年から1433年まで続き、全部で28年間続いた。船団は東南アジアやインド、アラビア半島を通り、さらにアフリカの東の海岸までたどり着き、30以上の国や地域とつながりを持った。

本当の目的に関する主な3つの説

1. 建文帝を探していた説(政治的な理由)

いちばん有名なのは、「前の皇帝・建文帝を探していた」という説だ。
永楽帝(しゅつてい)はもともと皇帝になる立場ではなかったが、「靖難の変(せいなんのへん)」という内戦を起こして王座についた。そのとき、それまで皇帝だった甥の建文帝がどこかへ姿を消した。

『明史』という歴史書には、「成祖(=永楽帝)は、恵帝(=建文帝)が外国に逃げたかもしれないと疑っていた」と書かれている。そのため、鄭和の航海は建文帝の行方を調べる任務だったと考える人も多い。特に最初の航海は、建文帝が隠れていると言われていた東南アジアの沿岸を中心に進んでいる。

ただ、多くの研究者は「ただ人を探すだけなら、あれほど大きな船団を出す必要はない」と指摘している。だから、これは表面の理由か、あるいは他の目的のついでだった可能性が高い。

2. 国の力を外国に見せ、貢ぎ物の仕組みを強めるため(外交的な理由)

もう一つの公にされた目的は、「外国に明の力と豊かさを見せること」だった。
当時の明は、北のモンゴルとの緊張や国内の安定のために、周りの国々との関係をしっかり作り直す必要があった。

鄭和の船団は、大きな宝船と数万人もの乗組員を連れて、訪れた国々に中国の強さを印象づけた。同時に、多くの国が「朝貢国」として明に従うようになり、貿易を通じて経済的なメリットも得られるようになった。

この考え方は、今の国際関係の研究でも支持されていて、「武力を使わないで海の秩序を作る試みだった」と評価されている。

3. 宗教や文化の交流を広げるため(心の面での理由)

最近になって注目されているのが、「宗教的な目的があった」という見方だ。
1911年、スリランカの港で『布施錫蘭山仏寺碑(ふせしゃくらんざんぶつじひ)』という石碑が見つかった。そこには、鄭和が現地の仏教のお寺に寄付をしたことが、漢文・タミル語・ペルシア語の三つの言葉で刻まれている。

この石碑から分かるのは、「力を誇示するだけでなく、相手の文化や信仰を大切にして友好関係を作ろうとしていた」ということだ。鄭和自身はイスラム教徒だったが、仏教やヒンドゥー教の国に対しても敬意を示していた。これは、いろいろな考え方を受け入れる柔軟な外交だったと言える。

まとめ:目的は一つではなく、いくつも重なっていた

結論として、鄭和の西洋航海の狙いは一つだけではなく、政治・外交・経済・宗教など、いくつかの理由が一緒になって動いていたと考えるのが自然だ。

  • 最初のころ(永楽帝の時代):建文帝の行方を調べることと、国の力を外国に見せること
  • 後半(宣徳帝の時代):朝貢の仕組みを保ちながら、文化交流を深めること

また、この航海によって「海のシルクロード」が活発になり、中国とインド洋周辺の国々のつながりがぐっと強まったことも、とても大きな意味を持っている。