
西暦228年に諸葛亮が北伐を始めて蜀軍がすぐに南安と天水と安定の三つの郡を奪い取ったために魏が張郃に五万の兵士を与えて向かわせたときに、諸葛亮は馬謖を街亭へ送って迎え撃たせようとしたものの、孔明が出した「道に沿って陣地を作れ」という命令を馬謖が聞かずに水を捨てて山の上へ登ってしまったので、張郃がこの間違いを見逃さずに蜀軍の水を断って簡単に勝ってしまい、この負けによって北伐の計画がすべてダメになってしまったことから孔明は泣きながら馬謖を処刑して自分の位も三等下げることにしました。
ではこの運命の分かれ目となった街亭という場所は現在の地図上のどこに当たるのでしょうか。
有力だと考えられている二つの候補地について
千年以上もの長い間ずっと議論が続けられてきた結果として、現在は甘粛省天水市の近くにある二つの場所が一番有力な候補地だと言われています。
一番多くの人が支持している秦安県隴城鎮説について
甘粛省天水市秦安県の北東にある町から約40キロメートルほど離れた隴城鎮あたりを指すこの説は、有名な歴史地理学者である譚其驤が作った『中国歴史地図集』にも街亭として載っているために多くの学者たちが支持している一番有力な説となっています。
どうしてここが有力だと言われているのか
古い書物に残っている記録について
唐代に作られた『通典』という本に「隴城県には街亭泉という泉があってそこが馬謖が負けた場所である」と書いてあることが街亭と隴城を結びつける一番古い記録となっており、『辞源』や『秦安県志』といった他の本들도街亭はこの県の中にあるとしているうえに、『後漢書』には隴城鎮の近くに「街泉亭」と呼ばれる宿駅があったと書かれているので「街亭」はその名前を短くした略称なのではないかと考えられています。
地面の中から掘り出された品物について
王家川というところから「漢大丞相諸葛武侯制」と彫られた鉄の釜が見つかったり、「蜀」という文字が刻まれた弩と呼ばれる機械弓や色々な武器類あるいは三国時代のものと推測されるお墓なども見つかっていて、これらの品々は現在甘粛省博物館に保管されて展示されています。
軍事面での重要さについて
隴城鎮は関中と隴右を結ぶ大切な道の真ん中に位置していて「隴右を取れば関中は安全だけど失えば危険になる」と言われるほど重要な場所であり、東西に十数キロメートル南北に約6キロメートル広がる百頃塬と呼ばれる平らな谷間はたくさんの兵士が戦うのにちょうど良い地形であるとともに、清水河の南側にある小さな丘が馬謖が陣地を置いた「南山」なのではないかと考えられています。
実際に戦闘が行われた具体的な場所について
『甘粛関隘史』という本に書かれている内容によると、実際に両方の軍隊が戦ったのは隴城鎮から東へ4キロメートルほど行ったところにある百頃塬という平地であって、そこは清水河が作った谷間で南北に山がある細長い形をした場所だそうです。
最近注目されている麦積区街亭村説について
甘粛省天水市麦積区の街子鎮にある街亭古鎮や街亭村のあたりを指すこの説は、孫子祥や宋杰といった研究者たちが唱えているものであって最近特に注目されるようになってきています。
この説の根拠となっているもの
距離や道のりのつじつまが合うことについて
当時の天水市の中心部は上邽と呼ばれていて孔明が包囲していたと言われるなかで街亭村は上邽に近い位置にあるため張郃の援軍ルートを考えると地理的につじつまが合うのですが、一方で隴城鎮から祁山までは今の道を使っても172キロメートルあり昔の道なら450里以上になってしまうので、『三国志』の注釈に書かれている「数里」という記述とは合わなくなってしまいます。
張郃が進んだ道との一致について
張郃は長安を出発して陳倉狭道を通り抜けて隴右へやって来たと言われているので、このルートを通ったならば天水の東南側から入ってくることになり、北東にある隴城鎮よりも街亭村付近の方が両方の軍隊がぶつかる地点として自然だと言えます。
地名がそのまま残っていることについて
街子鎮は昔から「街亭」と呼ばれていて、現在でも「街亭古鎮」や「街亭村」としてその名前がそのまま受け継がれています。
二つの説を比べてみた表
| 比べる項目 | 隴城鎮説(秦安県) | 街亭村説(麦積区) |
|---|---|---|
| 場所 | 天水市の北東約40km | 天水市の東南側 |
| 支持している人 | 多い(譚其驤や地方志など) | 孫子祥や宋杰など |
| 古い文献の根拠 | 『通典』『辞源』『秦安県志』 | 移動距離の論理 |
| 出土品 | 蜀軍に関係する物がある | 漢代の武器がある |
| 地形の特徴 | 6km×十数kmの広い谷 | 小さい丘と川 |
| 軍事面の妥当性 | 幹線道路の要所である | 上邽に近くて距離が短い |
| 現在の跡地の様子 | 記念亭と石碑がある | 街亭古鎮として整備されている |
なぜ場所がなかなか決まらないのかについて
正確な場所がわからない理由としては四つのことが挙げられます。
一つ目の理由は地名が変わってしまったことで、前漢の時代には「街泉県」と呼ばれていたのが後漢では「略陽県」に名前が変わってしまい、街亭というのは県の名前ではなくて関所を意味する「亭」の略称だったために行政区画が変わっていく中で場所がわからなくなってしまいました。
二つ目の理由は唐末の戦乱による情報の途絶えで、安史の乱の後に吐蕃が隴右に攻めてきたことによって隴城県は南へ移されることになり、元の街亭周辺は荒れ果ててしまって地理に関する情報がそこで途切れてしまいました。
三つ目の理由は小説『三国演義』の影響が強すぎることで、作り話の内容があまりにも広く知られてしまったために事実とフィクションの区別がつかなくなってしまい正しい検証ができにくくなってしまいました。
四つ目の理由は出土品の年代がはっきりしないことで、隴城鎮で見つかった品物が本当に三国時代のものなのかそれとももっと古い時代のものなのかについての厳密な鑑定がまだ足りないという意見もあります。
どちらの説の方が正しいと言えるのかについて
現時点では秦安県隴城鎮説の方がより有力であると考えられていて、その理由としては蜀軍の物だとされる実物の出土品が存在することや唐代からの文献のつながりが認められることおよび幹線道路の要所という戦略的な価値が正史の記述と合っていることの三つが挙げられます。
しかし麦積区街亭村説の方も移動距離や戦術の論理という面で無視できない根拠を持っていて、孔明の主力部隊が祁山や上邽にいたことを考えると魏軍との遭遇地点が天水の東南にあったとする考え方も十分に成り立つと言えます。
そのため一番正直な答えとしては、両方の説が対立した状態にあって新しい考古学的な発見が出てくるのを待つしかないというのが現状です。
現地へ行くための案内
隴城鎮(秦安県側)へ行く場合
甘粛省天水市秦安県隴城鎮にある寺坪山の上には1997年に完成した「街亭」記念亭があり碑の名前は習仲勲が書いたもので、2005年には県級文物保護単位に指定されていて天水市の中心部から車で約90分で行くことができます。
街亭古鎮(麦積区側)へ行く場合
甘粛省天水市麦積区街子鎮の街亭村にあるこの場所は中国歴史文化名村と中国伝統村落の両方に指定されていて、天水市の市街地からは比較的近い距離にあります。
全体のまとめ
馬謖が負けてしまった街亭という場所については、甘粛省天水市秦安県の隴城鎮だとする説と同市麦積区の街亭村だとする説が長く対立し続けていて、どちらの説も古い文献や地形あるいは作戦の合理性に基づいたしっかりした根拠を持っているために千年以上続いている議論はまだ終わっていません。
三国時代が好きであれば両方の候補地を実際に訪れて地形を自分の目で確かめてみることが一番良い体験になるでしょう。





