
『三国志』やその演義作品によく出てくる「荊州」は今の湖北省荊州市と同じだと思われがちだけど、実際には一番大きかった時に湖北と湖南の両省すべてに加えて河南の南部や広西の北部、広東の北部、貴州の東部、江西の西部の一部まで含んでいたとても広い行政区域だったので。
1. 荊州の始まりである『禹貢』での定義について
この名前は中国で一番古い地理書『尚書・禹貢』に初めて出てきて、「荊山から衡陽までの地域が荊州である」と書かれているのは北が湖北省南漳県近くの荊山から南が湖南省の衡山より南まで広がる場所を指していて、先秦時代にはこの辺りがほぼ楚国の領土と同じだったために「荊」と「楚」が同じ意味で使われており、紀元前689年に楚の文王が郢(今の荊州市紀南城)に都を移してから約400年間ここが政治の中心となっていたことから、この時の範囲は今の湖北省と湖南省のほぼ全部だったと言える。
2. 漢代の七郡と今の地名との関係
紀元前106年に武帝が全国を十三刺史部に区切って荊州刺史部を作り、最初の治所は漢寿県(今の湖南省漢寿県北部)にあったけどその後襄陽(今の湖北省襄陽市)に移ったという経緯があり、『後漢書・郡国志』に書かれた七郡は次の通りとなっている。
| 郡 | 当時の中心地 | 今に当たるエリア |
|---|---|---|
| 南陽 | 宛 | 河南省南陽市周辺(豫南地域) |
| 南 | 江陵 | 湖北省荊州・宜昌・荊門各市など(鄂中南部) |
| 江夏 | 西陵 | 湖北省武漢・黄岡・孝感各市など(鄂東部) |
| 長沙 | 臨湘 | 湖南省長沙・株洲・湘潭各市など(湘東北部) |
| 武陵 | 臨沅 | 湖南省常徳・懐化・張家界各市など(湘西部) |
| 零陵 | 零陵 | 湖南省永州市一帯(湘南部) |
| 桂陽 | 郴 | 湖南省郴州市、それに広東韶関・広西桂林の一部 |
漢代荊州全体を今の行政区で表した場合
漢代荊州全体を今の行政区で表すと、湖北省は武漢・襄陽・荊州・宜昌・黄石を含む全部で、湖南省は長沙・常徳・岳陽・衡陽・永州・郴州・懐化を含む全部となり、さらに河南省の南陽市と信陽市を中心とした南部や広西チワン族自治区の桂林市などの北部、広東省の韶関市と清遠市などの北部、貴州省の銅仁市などの東部、江西省の西部の少しだけが含まれていて、総面積は約45万平方キロメートルで日本の総面積(約37.8万㎢)よりも大きかった。
3. 三国時代に分割された状況
後漢の終わり頃に南陽郡と南郡の一部が分かれて襄陽郡と章陵郡が新しく作られたことで「荊襄九郡」と呼ばれるようになったものの、この呼び名は元代の雑劇や明代の演義作品で定着したもので実際の歴史では八郡説と九郡説の両方があるため注意が必要であり、208年の赤壁の戦いの後にこの地域は魏(曹操)が南陽郡・襄陽郡と南郡の北部(鄂北・豫南)を、呉(孫権)が江夏郡と南郡の南部(鄂中南部)を、蜀(劉備)が長沙・桂陽・零陵・武陵の江南四郡(湖南の大部分)をそれぞれ支配する形に三つに分かれ、219年に関羽が呂蒙に負けて江南の諸郡を失ってからは呉が単独で支配することになった。
4. 晋から唐宋にかけての変化の流れ
| 時期 | 主な変化 |
|---|---|
| 東晋(352年) | 治所が江陵(今の湖北省荊州市)に決まって長江中游の軍事要衝として機能した |
| 南北朝 | 斉の和帝や梁の元帝、後梁の蕭銑などが次々にここを都城にした |
| 唐 | 大都督府を置いて後に荊南節度使も置き、760年には江陵を「南都」として江陵府に名前を変えた |
| 五代十国 | 南平国(荊南)の首都になった |
| 宋 | 「荊州」という行政区画の名前がなくなって荊湖北路と荊湖南路に再編され、これが湖北・湖南両省の始まりとなった |
| 明・清 | 荊州府が置かれたけど管轄範囲は今の荊州市周辺に大きく縮んだ |
5. 古代荊州と現代荊州市の違いについての注意点
今の荊州市は湖北省の地級市(行政コード421000)で面積が約1.41万平方キロメートルしかなく古代荊州全体の約3%にあたるため、古代の「荊州」が省クラスの大きな行政単位だったのに対して今の荊州市はその中の拠点都市(江陵)の一つに過ぎず、『三国志』での「荊州争奪」とは湖北・湖南二省にまたがる戦略的地帯全体を取ることを意味していたということを覚えておく必要がある。
おわりに
古代荊州は湖北省全部と湖南省全部、河南南部、そして広西・広東・貴州・江西の各一部を合わせた地域におよそ相当し、時代が進むにつれて管轄範囲が小さくなって宋代には荊湖北路と荊湖南路に分けられて「荊州」という行政名自体が消えたものの、今の荊州市がかつての広い行政区の名前を受け継ぐ唯一の地名として2700年以上の歴史を伝えている。







