
高平陵の変(こうへいりょうのへん)は、中国・三国時代の終わりごろ、魏(ぎ)で西暦249年(正始10年)に起きた大きな政変です。この出来事によって、曹魏の実権が皇族の曹爽(そうそう)から重鎮の司馬懿(しばい)に移り、後に晋という新しい王朝が生まれるきっかけとなりました。しかし、司馬懿がこのとき曹爽と交わした「洛水の誓い(らくすいのちかい)」をその後すぐ破ったため、「信用を裏切った」と後世からずっと非難されています。
高平陵の変の背景と経過
魏の明帝・曹叡(そうえい)は亡くなる前に、まだ幼かった皇帝・曹芳(そうほう)を曹爽と司馬懿の二人に託しました。最初のうちは二人で協力していましたが、やがて曹爽は自分の親族や仲間(如何晏・鄧颺ら)を重要な役職につけ、司馬懿を太傅という名ばかりの地位に追いやるなど、自分勝手な政治を強めていきました。
これに対して司馬懿は病気を装って表舞台から姿を消しているように見せかけながら、ひそかに息子の司馬師や司馬昭とともに反撃のチャンスをうかがっていました。
正始10年、曹爽が曹芳を連れて明帝の墓である高平陵(現在の河南省洛陽市の郊外)へ参拝に行った隙を突いて、司馬懿は郭太后の名前を使って命令を出し、洛陽の城門を閉ざして武庫を占領し、軍の重要な拠点をすべて掌握しました。
洛水の誓い:曹爽をおびき寄せる作戦
その時点で曹爽は皇帝を伴っており、兵も数千人いましたから、許昌へ逃げて全国に呼びかけて司馬懿と戦う道もありました(桓範がそう勧めました)。しかし曹爽は優柔不断で、今の地位や財産を失うのが怖くて決断できませんでした。
そこで司馬懿は、曹爽が信頼していた殿中校尉の尹大目(いんたいもく)などを使者として送り、「役職を辞めるだけで、命や財産は守る」と約束させ、洛水(らくすい)のほとりで誓わせました。
洛水は昔の中国で黄河と同じくらい神聖視されていた川で、「河図洛書」という伝説にも登場する特別な場所です。そのため、ここで交わされた誓いは当時の人々にとって非常に重いものとされていました。さらに陳泰・許允・蒋済といった魏の有力な大臣たちもこの約束の証人になったため、曹爽は安心して武装を解き、洛陽に戻ることにしました。
誓いの破棄:一族全員の処刑
ところが曹爽が降伏すると、司馬懿はすぐに彼とその一派を「謀反を企てた」として逮捕し、ほどなく曹爽と弟の曹羲・曹訓、その家族、そして何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範といった側近まで含めて三族皆殺し(さんぞくみなごろし)にしました。
これは明らかに「洛水の誓い」に反する行動であり、当時の社会のルールから見ても重大な裏切り行為でした。特に誓いの証人の一人だった蒋渇は、この結果に深く落胆し、まもなく悔しさのあまり亡くなったと『三国志』に記されています。
なぜ司馬懿は約束を破ったのか?
歴史の専門家たちは、司馬懿が誓いを破った理由を次のように考えています:
- 政権を安定させるため:曹爽の仲間を生かしておけば、また反乱を起こすかもしれない。完全に排除しないと新しい体制は築けないと判断した。
- 恐怖で人々を従わせるため:「司馬懿は一度裏切ると容赦しない」と思わせることで、他の反対勢力を黙らせようとした。
- 長期的な戦略の一環:個人的な恨みではなく、司馬一族の将来のために、悪い評判を覚悟で動いた。
後世への影響と評価
司馬懿が「洛水の誓い」を破ったことは、中国の歴史において政治における信頼関係が崩れた象徴とされ、その後の時代に大きな影響を与えました。
- 東漢の光武帝・劉秀はかつて洛水で守将の朱鮪(しゅい)に「降参すれば命は助ける」と誓い、実際にそれを守って信頼を得ました。この話と比べると、司馬懿の行動はより冷酷に映ります。
- それ以降の中国では、権力争いの中で「口約束」はほとんど信用されなくなり、「誓っても意味がない」と考える風潮が広まりました。
- 司馬家が築いた晋王朝は、「国を不正な手段で手に入れた」という批判をずっと受け続け、後の八王の乱や五胡十六国時代の混乱の一因とも言われています。
結論:約束を破ったのは確かだと言える
『三国志』『晋書』『資治通鑑』などの史料を総合的に見ると、司馬懿が高平陵の変で曹爽と交わした「洛水の誓い」は、明らかに約束を破った行為であり、後世で「背信棄義」の典型例とされるのは当然のことです。
戦略としてはうまくいったかもしれませんが、当時の価値観では、神聖な川で立てた誓いを破ることは、単なる「知恵比べ」ではなく、道徳的にも歴史的にも責任を問われるべき重大な過ちでした。そのため、現代の歴史研究でも、司馬懿のこの行動は「うまく成功した策略」として注目される一方で、「信義を踏みにじった汚点」として厳しく批判され続けています。








