東呉と蜀漢の同盟はなぜ何度も壊れてはまた結ばれたのか?

東呉と蜀漢の同盟はなぜ何度も壊れてはまた結ばれたのか?

三国時代に、東呉(孫権)と蜀漢(劉備や諸葛亮)が結んだ関係は、単なる仲間同士というわけではなく、「お互いに得があるから一緒に行動した」ものでした。この協力関係は、208年の赤壁の戦いで曹操を追い払った後も、荊州をめぐって何度もぶつかり合い、別れたりまた手を組んだりを繰り返しました。

1. 同盟のはじまり:赤壁の戦い(208年)

曹操が南へ進んで荊州を手に入れると、劉備は逃げざるを得なくなり、命の危険にさらされましたし、孫権も長江より南にある自分の国が攻められるかもしれないと心配していました。そんなとき、諸葛亮が孫権のもとを訪れて、「曹操を倒すには二人で力を合わせるしかない」と伝え、周瑜ら東呉の軍と一緒に火を使う奇襲作戦を仕掛けて、曹操の大軍を撃退することに成功しました。

ポイント:二人とも曹操を敵と見なしていたので、一時的に協力したのです。

2. 最初のもめごと:荊州をめぐる対立

赤壁の戦いの後、荊州の支配を巡って両者の間にすれ違いが生まれ始めました。

  • 劉備は南郡を「借りた」と主張しました(これが「借荆州」と呼ばれる出来事です)が、その後益州(今の四川地方)を自分のものにしても返そうとせず、
  • 孫権側は「荊州はもともと東呉のものだ」と強く反発し、
  • 関羽が北上して襄陽や樊城を攻め出すと、東呉は「今がチャンスだ」と判断して動きました。

▶ 呂蒙の奇襲と関羽の最期(219年)

孫権は呂蒙に命じて兵士を白い服で偽装させ、荊州にこっそり入り込ませて関羽の守りを崩し、関羽は逃げましたが臨沮で捕まって処刑されてしまいました。

結果:蜀漢は荊州全体を失い、劉備は激しく怒って復讐のために大軍を動かすことを決めました。

3. 決別の戦い:夷陵の戦い(222年)

劉備は関羽の仇を討ち、荊州を取り戻すために約5万人の兵を率いて東呉を攻めましたが、若い将軍・陸遜の火計作戦によってひどい負け方をしてしまい、白帝城まで逃げ帰ってまもなく病気で亡くなりました。この敗北で蜀漢は国の力を大きく消耗し、魏からの攻撃にもうまく対応できなくなってしまいました。

教訓:感情だけで動くと失敗するということを諸葛亮はしっかり理解し、「呉と協力して魏に対抗する」ことを新しい方針にしました。

4. 再び協力する:諸葛亮の現実的な外交

劉備が亡くなった後、政権を引き継いだ諸葛亮はすぐに東呉との関係を修復しようと行動を起こしました。

  • 彼は鄧芝(とうし)を使者として送り、孫権に対して「魏がいちばん強くて、呉と蜀が戦えば両方とも滅びてしまう」とはっきり伝え、
  • 孫権も魏の脅威をよく理解していたため、223年に正式に再び同盟を結ぶことになり、
  • 229年に孫権が皇帝になると、蜀漢はすぐそれを認め、二人は「魏の領土をどう分けるか」まで話し合うようになりました(『三国志・呉書・孫権伝』)。

ポイント:この関係は「信頼」ではなく、「お互い生き残るため」に成り立っていたのです。

5. 同盟の終わり

しかし、この協力関係はずっと不安定で、お互いを完全に信じることはなく、一緒に作戦を立てることもほとんどありませんでした。263年に魏が蜀漢を攻めたとき、東呉は助けず、逆に蜀の土地を奪おうと動き、蜀漢が滅びると東呉も280年に晋に滅ぼされて、三国時代は終わりを迎えました。

結論

東呉と蜀漢の協力は、気持ちや義理ではなく、冷静な打算で成り立っていました。別れたのは「信用がない」からではなく、「その時の都合」が変わったからであり、また一緒になったのは「魏という共通の敵」がいたからです。