高平陵の変は避けられたのか?曹爽はどんな致命的な過ちを犯したのか?

高平陵の変は避けられたのか?曹爽はどんな致命的な過ちを犯したのか?

249年(正始十年)の正月、曹魏の都である洛陽で高平陵事変(こうへいりょうじへん)という大きな事件が起きてしまい、この出来事によって三国時代の歴史の流れがすっかり変わってしまったのですが、当時権力のてっぺんにいた大将軍の曹爽(そうそう)は一気に力をなくして最後には家族もろとも処刑されてしまい、それとは反対に年季の入った太傅の司馬懿(しばい)はこのすき間をうまく使って権力をがっしりと握り込み、のちの西晋王朝につながる道を切り開きました。

一、高平陵事変が起きる前のこと——二人の力持ちのぶつかり合い

1.1 明帝曹叡の遺言と補佐のしくみ

239年に魏の第三代皇帝である明帝曹叡(めいていそうえい)が亡くなって、まだ8歳だった曹芳(そうほう)があとを継ぐことになったとき、先に亡くなった皇帝の言いつけによって、下の表にある二人が一緒に国のお手伝いをすることになりました。

人物 役職 生まれや特徴
曹爽 大将軍 曹真の息子で皇族の生まれ、軍事と政治の本当の力を持っていた
司馬懿 太尉→太傅 三代の皇帝に仕えた古い重臣で、ものすごく高い評判と広い人脈を持っていた

曹叡がこうしようと思った理由は、皇族の代表と士族の代表を並べておいてお互いにけん制させようとしたのですが、曹爽が自分の方にだけ力を集め始めたせいで、このつり合いはあっという間に崩れていってしまいました。

1.2 曹爽が司馬懿を追い出したやり方

曹爽は身近にいた何晏(かあん)や鄧颺(とうよう)といった仲間たちの言うことを聞いて、自分自身の立場をもっと強くするために次のようなやり方を使いました。

  • 司馬懿を太傅(たいふ)という位に「上げて」、実際には力のない名前だけの役職に追いやってしまった(名前だけ上げて実力を取り上げる)
  • 弟の曹羲(そうぎ)や曹訓(そうくん)たちを、宮殿を守る軍隊の大事なポストに就かせた
  • 何晏たちを尚書台という政治の中心となる場所に入れて、国の動きを自分たちで操れるようにした
  • 郭太后(かくたいごう)を狭い所に閉じ込めて、宮廷の中で自分たちに反対する人たちを押さえつけた

1.3 司馬懿が十年かけてじっくり準備したこと

表向きには仕事をやめたふりをしていた司馬懿でしたが、裏の方では一歩一歩しっかりと準備を進めていました。

  • ひどい病気であるかのように振る舞って曹爽が油断するように仕向けて(李勝がお見舞いに来たときに見せた演技はとても有名です)
  • 長男の司馬師(しばし)に言いつけて三千人の命知らずの兵士(決死隊)を人に知られないように育てさせた
  • 蒋済(しょうさい)や高柔(こうじゅう)といった昔からの偉い人たちとのつながりをなくさないようにした
  • 郭太后から命令書を出してもらうための段取りをあらかじめつけておいた

二、高平陵事変——クーデターの二日間

2.1 事件の始まり

正始十年(249年)正月の甲午という日、曹芳は毎年恒例のお墓参りのために洛陽の街を出て、高平陵(明帝曹叡のお墓で洛陽から南東にだいたい37キロメートルのところ)へ向かったのですが、曹爽の兄弟たちと主な仲間たちはほとんどみんなついて行ってしまったので、洛陽の守りはまるで人がいないも同然の状態になってしまいました。

このときをずっと待っていた司馬懿はすぐに動き出して、次のようなことを次々とやりました。

  1. 郭太后の名前での命令を使って、洛陽のすべての城門を閉め切った
  2. 洛水という川にかかる浮橋を取り押さえて、人の行き来を止めてしまった
  3. 曹爽の兄弟たちを役職から外してほしいとお願いする文書を曹芳のところへ出した
  4. 曹爽たちのいる場所へ蒋済の手紙を送って「洛水を指して約束する、曹爽の家族にひどいことはしない」ということを伝えた

2.2 桓範が命がけで逃げ出したこと

この大変なことを知った大司農の桓範(かんはん)は、曹爽の一番頼りにする知恵袋として洛陽の街をうまく逃げ出して高平陵の方へ大急ぎで向かい、着くなり曹爽に対して次のようなやり返し方をしたらいいとすすめました。

「天皇さまをお連れして許昌(きょしょう)という町へ移って、あちこちの兵隊を集めて司馬懿と戦うのがよいでしょう」

このすすめ方はすごく道理に合っていて、その理由は次のようになります。

  • 皇帝の曹芳は曹爽の側にいるので命令書を出すちゃんとした理由がある
  • 大司農という役目の力で全国にいる屯田兵を動かすことができるので食べ物の心配もない
  • 許昌は曹魏のかつての都なので守りの設備がしっかり整っている
  • 地方にいる将軍たちの多くは曹氏の恩を受けた人たちなので皇帝からの命令があればすぐに駆けつけてくれるはず

三、曹爽がやってしまった五つの取り返しのつかない間違い

間違い① 兄弟みんな一緒に洛陽を離れた——危ないという気持ちが足りなかった

桓範は出発する前にこう言っていたのです。

「あなた方ご兄弟は国の大事な仕事をまとめて軍隊を指揮しているのだから、みんな一緒に街の外へ出るべきではありません、もし城門を閉められてしまったらどうやって戻ってくることができるでしょうか」

それなのに曹爽は笑って相手にせず**「誰がそんなことをするものか」と言い切りましたが、これは司馬懿が十年も隠れていたのを「年を取って仕事をやめたのだ」と思い込んで全く気をつけなかったひどい判断の間違い**だったのです。

間違い② 司馬懿の「ひどい病気」の演技にだまされた

曹爽は身近にいた李勝(りしょう)を司馬懿のお見舞いに行かせたのですが、司馬懿はわざとお粥をこぼしたり言葉を聞き間違えたりして、もうじき死にそうだと振る舞い、帰ってきた李勝が「司馬懿はもう消えそうなろうそくの火のようなものです」と報告したのを聞いて曹爽はすっかり安心しきってしまいました。

これは**「認知バイアス」**という考え方の癖のわかりやすい例で、曹爽は自分が信じたいと思うことだけを受け取って、それに合わない証拠のようなものはどれも目に入れないようにしてしまったのです。

間違い③ 桓範のすすめを聞かなかった——「お金持ちのおじさん」になれるという甘い考え

大きな事件が起きたあと桓範は夜の間ずっと(真夜中から朝が来るまで)曹爽をなんとか説得しようとしたのですが、曹爽はとうとう刀を地面に放り投げてこう言ってしまいました。

「太傅(司馬懿)がやりたいことは、ただ私に役職を捨てさせたいだけなのだから、私も役職を捨てればいいのであって、そうしてもお金持ちとしてのんびり暮らしていけるだろう」

これを聞いた桓範は泣きながら叫びました。

「曹子丹(曹真)はあんなに頭の良い方だったのに、どうしてあなたたちのようなブタや子牛みたいな人たちを生んでしまったのか、今日という日に私はあなたたちのせいで一族みんな殺されてしまうのだ!」

力の取り合いで「降参すればいのちは助かる」と思うのは一番あぶない思い違いで、司馬懿は「よくない芽は根っこから抜き取る」ことを自分のやり方としていた人なのです。

間違い④ 「洛水の川での約束」を本当だと思ってしまった

司馬懿は昔からの偉い人である蒋済を通して手紙を送って、「洛水を指して約束する、曹爽のご兄弟のいのちは保証する」と請け合いましたが、曹爽はこの約束を本気で信じてしまいました。しかし実際のところは:

  • 司馬懿が洛水で約束したとき使ったのは左手だったという(右手では曹爽の一族を始末した)あと世の中の人が言った皮肉が残っている
  • 蒋濟という人自身も、あとになってこの約束をやぶったことを恥ずかしく思って病気になって死んだと言われている
  • 昔の中国での力のある人たちの争いでは、約束というのは「やぶるためにあるもの」というのが当たり前のことだった

間違い⑤ 郭太后を閉じ込めていたことが悪い方に出た

曹爽は国を取り仕切っていたあいだ、宮廷の中で自分たちに反対する人たちを押さえつけるために郭太后を永寧宮という所に閉じ込めていたのですが、そのせいで司馬懿はこの大きな事件を起こすときに「郭太后の命令にしたがって動いている」というちゃんとした理由をたやすく手に入れてしまったのです。

もし曹爽が郭太后をきちんと大切にしていたら、司馬懿が太后の名前を借りて大きな事件を起こすこと自体がむずかしかったはずで、自分で作ってしまったすき間を相手にうまく使われてしまったということになります。

四、高平陵事変は避けることができたのか?

4.1 避けられたかもしれないやり方

やり方 できるかどうか そう思うわけ
兄弟がみんな一緒にいかないようにする とても高い 桓範が言ったように、せめて一人でも洛陽に残っていれば事件自体が起きない
桓範のすすめ(許昌への引っ越し)を使う 高い 皇帝を連れていて命令書の正当性があるので地方の軍隊を集めることもできる
司馬懿の「病気」をじっくりと調べる 中くらい 見張りを強めていくつかの違った情報のもとで確かめ合う必要がある
士族と呼ばれる人たちとの仲を良くする 長い目で見ればできる 正始改制が士族の持っている権利を傷つけたので、やり方を直す必要がある

4.2 そもそもの仕組み上避けにくかったこと

その一方で、下の表にあるような仕組み上の理由から長い目で見た対立は避けられなかったとも言うことができます。

  • 皇族と士族の力の取り合いは曹魏という国の仕組みに元からあったぶつかり合いだった
  • 司馬懿が持っていた政治への大きな望みと長年積み上げた本当の力は、曹爽一人の代で消し去れるようなものではなかった
  • 曹爽自身が持っていた政治をする力というのが、自分が持っている力の大きさに追い付いていなかった

まとめると:「一つ一つの細かい間違いは避けることができたけれど、曹爽という人の性格や国を治める力の限界を考えれば、遅かれ早かれ同じような危ない場面にぶつかる可能性がとても高かった」と言うことができます。

五、事件のあとのなりゆき

曹爽が降参したあと、司馬懿は約束をひっくり返して曹爽の兄弟たちと何晏・鄧颺・桓範といった仲間たちを一気に捕まえて、三族(お父さんの方の親族、お母さんの方の親族、奥さんの方の親族)みんなを処刑してしまい、これに巻き込まれて命を落とした人は何千人にもなったと言われています。

この日を境にして曹魏の本当の力はすっかり司馬一族の方に移ってしまい、そのあと起きた淮南三反乱(王淩・毌丘倹・諸葛誕)のような抵抗の動きもすべて押さえつけられて、265年の西晋という国の建国へとつながっていきました。

まとめ:高平陵事変から学ぶことができること

曹爽から学ぶこと 今の世の中へのヒント
競争相手が静かにしているのを「力がない」と勘違いする 静かにしている相手ほど気をつける必要がある
身内のみんなを同じ危ない目に合わせる 危ないことは分けておくという考え方に反している
相手の「約束」をそのまま受け取ってしまう 約束がちゃんと守られるしくみを作る必要がある
頭のいい仲間の意見を聞こうとしない 決断をするときの「自分に都合のいい考え」のこわさ
持っている力の大きさに自分の力が追い付かない 人の使い方のかみ合わなさが組織をダメにする

高平陵事変は昔の中国で起きた宮廷の中での力の取り合いというだけではなくて、力の仕組みの本質や人の考え方の癖、危ないことにどう備えるかについて、今の時代にも通じる深い教えを含んでいます。

参考にした昔の記録: 陳寿が書いた『三国志』魏書九(曹爽伝)、同じく魏書一(明帝紀)、裴松之が付け加えた注の『魏略』『魏氏春秋』、房玄齢たちが書いた『晋書』宣帝紀

よく聞かれる質問

Q: 高平陵事変はいつ起きたのですか?
A: 西暦249年(曹魏の正始十年)の正月です。

Q: 曹爽が桓範のすすめを受け入れていれば勝てましたか?
A: 皇帝を連れていて地方の軍隊を集めることができたので、少なくとも長い戦いにもちこむことは十分にできたでしょう。

Q: 司馬懿はどうして曹爽を処刑したのですか?
A: 曹爽が生きているといつかやり返される心配があるので、「よくない芽は徹底的に摘んでおく」という政治的な考え方で三族みんなを処刑しました。