
張遼(ちょうりょう、169–222年)は字を文遠といい、并州雁門郡馬邑県(今の山西省朔州市)で生まれ、もともとは聶という姓だったが事情があって張に改めた人物である。
五子良将というのは、陳寿が『三国志』魏書巻十七で張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人をまとめて一つの伝に書き、「太祖が武功を立てるとき、当時の素晴らしい将軍としてこの五人を先頭に立てた」と記したことから生まれた呼び名であり、それぞれの概要は下の表のようになっている。
| 名前 | 最後の役職 | 主な評価ポイント |
|---|---|---|
| 張遼 | 前将軍 | 頭も体も良く、一人で戦う能力がとても高い |
| 楽進 | 右将軍 | 勇ましくて決断力があることで有名 |
| 于禁 | 左将軍 | 真面目で落ち着きがあったが、晩年に失敗をした |
| 張郃 | 征西車騎将軍 | 状況に合わせて柔軟に対応するのが上手い |
| 徐晃 | 右将軍 | 軍隊のルールが厳しく、昔の名将に似ていると言われる |
最強と言われる「五つの理由」
1. 逍遙津での少ない兵力による大勝利
建安20年(215年)に曹操が漢中の張魯を討つために主力部隊を連れて行ってしまったため、合肥に残された守備兵は張遼・李典・楽進の三人を合わせても約七千人しかいなかったのだが、そこへ孫権が呂蒙・甘寧・凌統・陳武といった強い部下たちを引き連れて十万人規模で攻めてきたので、兵力の差はおよそ十四倍にもなっていた。
曹操は事前に「敵が来たら張遼と李典を出撃させ、楽進は城を守れ」という秘密の命令を残していたので、張遼は城に閉じこもらずに八百人の決死隊を作って夜明けと同時に敵の陣地へ飛び込んだ。
最初の攻撃の結果:
- 呉の陣地を突き抜けて孫権の旗の下までたどり着いた
- 呉の将軍である陳武を倒した
- 孫権は山の頂上へ逃げ、全軍が大パニックになった
- お昼までの戦いで敵のやる気を完全になくさせた
追いかけて戦った結果:
- 十数日後に病気が流行って撤退する呉軍を逍遙津の北側で見つけて攻撃した
- 部隊を分けて橋を壊す作戦を実行した
- 孫権は壊れた橋を馬でジャンプしてなんとか逃げ出した
- 甘寧や凌統たちも負かされ、捕まる寸前だった
この勝ち方は「張遼が江東で怖れられる」と記録されており、呉の土地では「泣いている子供に張遼の名前を言うと黙る(張遼止啼)」ということわざまでできたのである。
2. 白狼山で見せた素早い判断力
建安12年(207年)に曹操が烏桓を遠征したときに張遼は先頭部隊を担当し、白狼山で烏桓の大軍と出会った際に敵の並び方がまだ完成していないことを見抜いたので、曹操は自分の指揮旗を張遼に渡して攻撃を命じた。
張遼は迷わず突っ込んで単于の蹋頓を陣地で切り殺し、烏桓軍はバラバラになって北方の平定が決定的なものとなった。
ここからわかる彼の能力は以下の通りである。
- チャンスをつかむ速さ:敵の準備不足を一瞬で見逃さない
- 先頭部隊としての信頼:曹操が一番頼りにしていた突撃リーダー
- 異民族との戦いへの慣れ:辺境の出身なので馬に乗った戦いに詳しかった
3. 方面軍の司令官としての特別さ
五子良将の中で、張遼だけが独立した戦略的な部隊を長い間まとめていた。
| 名前 | 主な仕事の形 | 一人で指揮した実績 |
|---|---|---|
| 張遼 | 合肥エリアの総責任者 | ○ 長い間自分で防衛をした |
| 楽進 | 色々な戦いの先頭・別部隊 | △ 限られた範囲だけ |
| 于禁 | 軍団レベルの指揮官 | ○ ただし樊城で全滅した |
| 張郃 | 西側の戦線の副司令 | △ 偉い人の下についていた |
| 徐晃 | 別部隊のリーダー | △ 一時的な任務だけ |
張遼は李典や楽進らをまとめながら、中央からの応援なしで東呉の攻撃をずっと止め続けており、これは五子良将の中で彼だけの事例である。
4. 生涯負けなしの完璧な戦績
主な手柄を時系列で並べると次のようになる。
- 白馬の役(200年):関羽と一緒に先頭部隊として顔良の包囲を破った
- 官渡決戦(200年):袁紹軍を破って大将の蒋奇を斬った
- 黎陽攻略(203年):袁譚と袁尚の兄弟を打ち負かした
- 柳城制圧(207年):白狼山で蹋頓を討ち取った
- 長社鎮圧(209年):趙賁や韓遂の残党を片付けた
- 陳蘭・梅成征伐(209年):天柱山の険しい場所で敵を全滅させた
- 合肥防衛(215年):逍遙津で孫権の十万の軍勢を追い返した
- 広陵進軍(222年):病気をおして曹休を助け、呉軍を退かせた
ここで注目したいのは、陳寿が『三国志』で「張遼と徐晃の事績は特に詳しい」と他の将軍より高く評価していることであり、これは記録が充実していることが彼の功績の確かさを証明していることを意味している。
5. 主君からの特別な信頼
曹操の扱い:
- 逍遙津の勝利の後に張遼を征東将軍に昇格させた
- 建安21年(216年)に合肥を通った時に戦いの跡を一つずつ見て回り、「長くため息をついていた」と書かれている
- 兵隊を増やし、その場所の防衛をすべて任せた
曹丕の扱い:
- 文帝になった後に前将軍に任命し、兄の張汎と息子一人に関内侯を与えた
- 張遼が病気になると自分でお見舞いに行き、宮廷の料理人に食事を作らせ、侍中を付き添わせた
- 亡くなった後に剛侯という諡号を贈った
他の四人との比べ方
対 于禁
于禁は「毅重」と褒められて軍の規律が厳しかったけれど、樊城の役(219年) で関羽の水攻めにあって七軍が全滅した上に降伏してしまい、曹操は「三十年も仕えた者が危ない時に関羽に屈するとは」と嘆き、後に曹丕から恥をかかされて憤死した。
→ 張遼は苦しい場面で本当の力を発揮するが、于禁は普段は有能でも逆境には弱かった。
対 張郃
張郃は「巧変」と呼ばれて地形や状況に合わせた柔軟な戦い方を得意としたが、その活躍の多くは夏侯淵・曹真・司馬懿といった上司の配下に限られていて、自分で作戦を立てる機会に恵まれず、最期は木門道で諸葛亮の待ち伏せにあって戦死した。
→ 張遼は自分で戦略を考えて実行できたが、張郃は優秀な戦術家でも戦略レベルでは及ばなかった。
対 徐晃
徐晃は樊城で関羽を破って曹操から「全軍の気力を保った」と褒められ、軍紀が厳しくて周亜夫に例えられたものの、手柄の大きさと種類の点で張遼には劣っている。
→ 徐晃はしっかりした名将だが、歴史が変わるような大きな功績は挙げられなかった。
対 楽進
楽進は「驍果」(勇猛果断)という評判で毎回先頭部隊を務めたけれども、陳寿は「その行動を見ると、まだ名声にふさわしくない」と言って記録が十分ではないことを指摘している。
→ 楽進は勇ましい将軍ではあったが、張遼のような知的な指揮官の面は少なかった。
軍事的能力の総合チェック
| 評価のポイント | 張遼のレベル |
|---|---|
| 戦術を考える力 | ★★★★★ 逍遙津の最初の攻撃も追撃も完璧だった |
| 先頭で突っ込む力 | ★★★★★ 白狼山や合肥で自分が最前線を指揮した |
| 一人で戦う力 | ★★★★★ 方面軍の司令官として長く駐屯して守った |
| 苦境を乗り越える力 | ★★★★★ 十四倍の兵力差をひっくり返して勝った |
| 忠誠心や人柄 | ★★★★★ 降参してきた身なのに主君の最大の信頼を得た |
| 後世への影響力 | ★★★★★ 「張遼止啼」の話が残っており、武廟六十四将に選ばれている |
よくある質問(FAQ)
Q1:五子良将に入るのは誰ですか?
張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人であり、陳寿が『三国志』で一緒に伝を書いて「太祖が武功を立てるとき、当時の良い将軍として五子を先頭に立てた」と評価しました。
Q2:張遼の代表的な戦いは何ですか?
建安20年(215年)の逍遙津の役(合肥防衛戦) であり、八百人の選抜隊を率いて孫権の十万の軍勢を破り、孫権本人を捕まえる寸前まで追い詰めました。
Q3:張遼は最初はどの勢力にいましたか?
丁原→董卓→呂布の順番に従い、下邳の戦い(198年)で呂布が滅んだ後に曹操のところへ来ました。
Q4:「張遼止啼」とは何のことですか?
呉の地域で、泣き止まない子供に「張遼が来るぞ」と言うと静まったという言い伝えのことで、彼の名前が江東にどれだけ浸透していたかを語るエピソードです。
Q5:張遼は武廟に祀られていますか?
はい、唐代の武廟で古今六十四名将の一人に選ばれており、中国の歴代武将の中でも最高クラスの扱いを受けています。
まとめ
張遼が五子良将のトップとされる理由ははっきりしており、逍遙津の役という中国軍事史上でも珍しい寡兵の大勝を達成したこと、白狼山で蹋頓を斬るなど色々な戦場で思い切りの良い指揮を見せたこと、五人の中で唯一方面軍の司令官として自分たちの作戦を長く担当したこと、生涯を通して負けた記録が残っていないこと、そして曹操や曹丕から特別な信頼を受けて武廟六十四将に選ばれたことである。
于禁は逆境に弱く、張郃は一人で指揮する機会が少なく、徐晃は手柄の規模で劣り、楽進は史料が不十分だったが、それに対して張遼は知略・勇気・忠義・実績のすべてに隙がなかった。
まさに陳寿が書いた「時の良将、五子を先と為す」の中でも、張遼こそがその一番上に立つのにふさわしい存在であったと言えるだろう。








