
甘粛省隴南市礼県の東側にある西漢水の北岸に広がっている丘陵地帯が祁山で、長さは約25キロメートルあり一番高いところでも標高は237メートルしかないけれど、四川盆地と甘粛高原をつなぐ安全な道としてずっと使われてきたので「九州の名阻」や「天下の奇峻」と呼ばれるようになりました。前漢の時代に匈奴への対策として山の中腹に祁山城が作られてから2100年以上もの間、ここは軍事面でとても大切な場所であり続けており、「六出祁山」という故事で諸葛孔明の名前が広く知られるようになったものの、本当はもっと多くの武将や君主たちがこの地で勢力争いをしていたので、ここでは孔明以外の7人を時代の順番に合わせて紹介していきます。
1. 馬超 ── 涼州を取り戻そうとして30日間も城を囲んだ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 176年から222年まで |
| 所属した勢力 | 独立した軍閥から張魯の配下になり、その後蜀漢へ |
| 関わった出来事 | 建安19年の祁山攻め |
伏波将軍・馬援の子孫である馬超は潼関で曹操を苦しめた強い武将として知られていますが、涼州での拠点を失った後に漢中の張魯のところへ身を寄せました。建安19年(214年)の春に張魯から兵を借りて涼州をもう一度取り戻そうと考えた馬超は祁山城を30日間にわたって囲み続け、守っていた姜叙が夏侯淵に助けを求めたことを受けて、夏侯淵は「鄴にいる曹操に連絡したら往復で4000里もかかるから待っていたら城が落とされてしまう」と考えて張郃に歩兵と騎兵合わせて5千人を与えて陳倉狭道を通って急いで向かわせました。渭水のほとりに着いた張郃に対して馬超は氐や羌の兵数千人で迎え撃ちましたが、結局負けて逃げてしまいました。
ポイント: この戦いは孔明が初めて北伐を行ったよりも14年も前の出来事で、祁山が三国時代になる前から重要な軍事拠点だったことを示しています。
2. 夏侯淵 ── 上司の許可を取らずに救援を出した曹魏の西方担当
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 不明から219年まで |
| 所属した勢力 | 曹魏 |
| 関わった出来事 | 馬超の包囲を破ったこと |
曹操の親戚である夏侯淵は雍州と涼州エリア全体の責任者をしていて、馬超が祁山を攻めてきた時に部下たちから「主公の命令を待つべきです」と言われましたが、それを聞かずにすぐに出動するよう命じました。『資治通鑑』の巻六十七には「公は鄴におり、往復四千里なり。報を待てば、叙らは必ずすでに敗れているだろう。これは急ぎを救うものではない」と言ったことが書かれており、この素早い判断のおかげで張郃の先発隊が間に合って包囲が解かれたため、祁山を守り切った良い例として後の世にも伝えられています。
3. 張郃 ── 二回にわたって祁山の戦いに影響を与えた曹魏の名将
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 不明から231年まで |
| 所属した勢力 | 曹魏 |
| 関わった出来事 | 214年の馬超撃退と228年の街亭での勝利 |
曹魏五将軍の一人に数えられる張郃は祁山の周辺で二つの大きな手柄を立てており、一つ目は214年に夏侯淵の命令に従って歩兵と騎兵5千人を連れて陳倉狭道を急いで通り抜けて馬超の包囲を解いたことで、二つ目は228年に孔明の第一次北伐に対して魏明帝・曹叡から5万の歩兵と騎兵を預かって出陣し、街亭で蜀漢の先鋒だった馬謖を打ち破って敵の侵攻計画を失敗させたことです。『三国志・張郃伝』にも「亮、祁山に出づ。郃、謖を撃ちて大いに之を破る」と書いてあるので、祁山をめぐる攻防において曹魏側で一番活躍した実戦指揮官だと言えます。
4. 司馬懿 ── 時間を稼ぐ作戦で孔明の四度目の攻めを防いだ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 179年から251年まで |
| 所属した勢力 | 曹魏 |
| 関わった出来事 | 建興9年の祁山での対峙 |
孔明にとって一番手強い相手が司馬懿で、建興9年(231年)に蜀漢の軍隊が四回目の祁山攻撃を仕掛けてきた時に、病気で亡くなった曹真の代わりに西方戦線全体の指揮官になりました。彼は正面からぶつかることを避けて徹底的に守りを固めて時間を稼ぐ方針を取り、補給路が弱い蜀軍は時間が経てば自分から撤退すると見抜いていたからです。この対峙は「空城の計」や「死せる诸葛、生ける仲達を走らす」といった話の舞台になっており、「戦わずに勝つ」方法を使ったことで曹魏の祁山戦線における優位が決まりました。
5. 姜維 ── 孔明の意思を引き継いだが段谷で大負けした蜀漢最後の大将
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 202年から264年まで |
| 所属した勢力 | 蜀漢 |
| 関わった出来事 | 延熙19年の祁山からの出兵と段谷での大敗 |
天水郡出身の姜維は孔明の最初の北伐の時に蜀漢に入り、その後は孔明の意思を継いで全部で11回の北伐を行いました。延熙19年(256年)に大将軍として祁山から出て上邽を攻め取ろうとしましたが、曹魏の安西将軍・鄧艾が武城山に陣取って強く抵抗してきたので、夜に渭水を渡って東に進みました。段谷(今の天水市麦積区の南西)で激しい戦いになりましたが、味方の胡済が約束した日に来なかったために一人で戦うことになって大負けしてしまい、この段谷での敗戦は夷陵の戦い以来最悪の損害だったので姜維は自分で後将軍への降格を願い出ました。このことは孔明が亡くなった後も祁山道が蜀漢の北伐の中心ルートであり続けたことを表しています。
6. 楊盛 ── 五胡十六国時代に祁山を治めた仇池の王様
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生きた年 | 364年から425年まで |
| 所属した勢力 | 後仇池国(氐族の政権) |
| 関わった出来事 | 祁山を領地にして後秦と戦ったこと |
三国時代から約150年後に氐族の楊氏が仇池山を拠点にして後仇池国を作り、その二代目の王である楊盛が祁山一帯を自分の領地にしました。東晋から「仇池公」という称号をもらった楊盛は姚氏の政権である後秦と何度も戦い、義熙8年(412年)と義熙12年(416年)には後秦の大規模な遠征を二回とも跳ね返しており、祁山はこの国にとって北の前線基地として役立っていました。また楊盛は劉宋ができた後も「私はもう年を取った。最後まで晋の臣下でいるつもりだ」と言って東晋への忠誠を貫いた人としても尊敬されています。
7. 呉玠・呉璘兄弟 ── 南宋の川陝防衛を支えた祁山堡の守備隊
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 活動した時期 | 12世紀の前半 |
| 所属した勢力 | 南宋 |
| 関わった出来事 | 祁山堡での金軍との戦い |
南宋の初めに女真族の金王朝が南に攻めてきた時、呉玠と呉璘の兄弟は川陝方面の防衛を担当しており、祁山は「祁山寨」として西北の防衛線の重要なポイントになりました。嘉定10年(1217年)には金の将軍・楊沃衍が「西和州の祁山堡に攻め入り、宋の守備兵六千人を破った」という記録が残っていて、ここが宋と金の戦争で激しく戦われた場所だったことがわかります。呉璘は兄が亡くなった後も川陝の軍隊を率い続けて金の四川侵攻を長い間食い止めており、漢の時代から南宋までの約1400年間、祁山堡はずっと軍事要塞としての役割を果たしていました。
まとめ:祁山に関わった7人の人物リスト
| 年代 | 名前 | 陣営 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 漢末214年 | 馬超 | 独立軍閥 | 30日間囲んだが張郃に負けて撤退 |
| 漢末214年 | 夏侯淵 | 曹魏 | 勝手に張郃を派遣して包囲を解いた |
| 三国228年 | 張郃 | 曹魏 | 街亭で馬謖を破って北伐を失敗させた |
| 三国231年 | 司馬懿 | 曹魏 | 持久戦で第四次北伐を防いだ |
| 三国256年 | 姜維 | 蜀漢 | 祁山から出たけど段谷で大敗 |
| 五胡十六国 | 楊盛 | 後仇池国 | 祁山を領地にして後秦の攻撃を跳ね返した |
| 南宋12世紀 | 呉玠・呉璘 | 南宋 | 祁山堡で金軍と長く戦った |
祁山は決して孔明だけの場所ではなく、漢末の群雄割拠から三国の魏と蜀の争い、五胡十六国の民族間の紛争、さらに南宋の対金防衛戦に至るまで、およそ1400年にわたって中国西部の戦略的に大事な場所であり続けました。








