
229年に孫権が皇帝になると、東呉は一見すると平和でしっかりした国のように思われたけれど、実際には中で大きな政治の混乱が進んでいて、特に彼が年をとってから亡くなったあとにかけて、「二宮の変」と呼ばれる次の皇帝を誰にするかをめぐる激しい争いが起こり、国の力が大きく弱まってしまった。
1. 皇帝になってからの一時的な落ち着き
孫権は赤壁の戦いで曹操の軍を破って劉備とともに天下を三つに分ける一角を築き、229年には魏や蜀に続いて自分も皇帝になって「呉大帝」と呼ばれるようになった。最初のうちは陸遜や張昭といった有能な人材をうまく使って、江南地方での支配をしっかり固めていた。
だが、この安定は長くは続かなかった。問題の中心は、孫権が年をとってからの政治のやり方と、誰に皇位を渡すかという判断ミスにあった。
2. 「二宮の変」:内乱が起きた直接のきっかけ
2.1 次の皇帝がいなくなったピンチ
241年に第一太子だった孫登が亡くなり、その翌年には三男の孫和が新しい太子に選ばれた。しかし同時に、四男の孫覇も魯王として封じられて、太子とほとんど同じ扱いを受けた。このような「正妻の子と側室の子の区別があいまいな扱い」が、朝廷を二つのグループに分けてしまう「二宮の変(南魯党争)」を引き起こした。
2.2 大臣たちの仲違いと陸遜の最期
太子を応援していたのは陸遜や諸葛恪など、主に江東の有力な家柄出身の文官たちで、一方で魯王を支えていたのは全琮や歩騭といった淮泗(わいし)系の武将たちだった。孫権は最初はどちらにも味方しない態度を取っていたが、次第に魯王寄りになっていった。陸遜が太子を守るよう進言すると、孫権は強く怒って彼を厳しく責め立て、そのせいで陸遜は悲しみのあまり命を落としてしまった。
2.3 孫権の最後の決断とその代償
250年、孫権はついに孫和を太子の座から外して孫覇を処刑し、代わりにわずか8歳の孫亮を次の皇帝に指名した。この判断で朝廷の争いは一時的に収まったものの、幼い皇帝と年老いた君主というとても不安定な体制ができてしまった。
3. 孫権の死後の混乱:内乱が広がる様子
孫権が252年に亡くなった直後から、東呉は急激に混乱し始めた。託された大臣同士が対立して諸葛恪が孫弘を殺し、その後諸葛恪自身も北伐の失敗をきっかけに孫峻に暗殺された。孫峻が死んだあとにはそのいとこの孫綝が力を握って暴政を始め、孫亮を退かせて孫休を新しい皇帝に据えたが、最終的には孫休が孫綝を倒してようやく少し落ち着いた。こうして孫権の死後7年ほどの間に、東呉は3度のクーデター、2人の皇帝交代、多数の重臣の粛清という激しい動乱を経験することになった。
4. 内乱の本当の原因:孫権の政治の失敗
4.1 地元の有力者への警戒心
孫権は父の孫堅や兄の孫策の時代から続く淮泗系の武将たち(外部から来たグループ)を頼りにしていたが、実際に呉の国を治めるには地元の江東の名家(陸氏・顧氏など)の協力が欠かせなかった。しかし孫権は彼らの力を恐れて、太子を支えていた陸遜らを追い出すことで、地元の勢力を抑え込もうとした。
4.2 権力を一人で握りすぎたことと疑い深さ
晩年の孫権は魏で起きた高平陵の変(249年)を見て、「親戚や重臣が国を乗っ取るかもしれない」と強く思うようになり、そのためわざと小さな孫亮を後継者にして自分が生きている間はすべての権力を手放さないようにした。だがこの考えが逆効果で、権力が宙ぶらりんになったせいで、託された大臣たちの間で争いが起きてしまった。
6. まとめ
孫権が皇帝になったことは表面上うまくいったように見えたが、晩年の後継者問題への対応が東呉の長い衰退を決めてしまい、「二宮の変」は単なる皇子同士の争いではなく、地元の有力者と外部の武将グループの対立と孫権自身の疑い深さが重なった大きな政治危機だった。この内乱のせいで東呉は魏や晋といった外の敵に対抗する力を失い、最終的には280年に西晋に滅ぼされてしまった。








