なぜ東呉は最終的に西晋に滅ぼされたのか?

なぜ東呉は最終的に西晋に滅ぼされたのか?

長江を本拠地にして三国の一角を担っていた東呉(呉)は、280年に西晋に簡単に負けてしまいました。どうしてそんなことになったのか?

孫皓のわがままなやり方が国をダメにした

東呉の最後の王・孫皓(そんこう)が国を弱くしてしまいました。彼は最初のうちはまともな政治をしていましたが、だんだん贅沢で自分勝手になり、人をひどく扱うようになりました。忠実な家臣を次々と殺し、民衆には高い税金や無理な働きを強いたため、誰も彼を信じなくなりました。さらに、西晋に対して何度も無謀な攻撃を仕掛け、国の力をどんどん使い果たしていきました。こうして内側から国がボロボロになり、外からの攻撃にまったく耐えられなくなってしまったのです。

長江の守りがうまくいかなかった

東呉は長江を天然の壁にして守っていましたが、西晋はそれをうまく突破しました。王濬(おうしゅん)が率いる晋の軍は、まず丹陽(今の湖北省秭帰あたり)を占領しました。そして、東呉が川に張っていた鉄の鎖や水中の障害物を、大きな筏と火を使って壊してしまいました。これで晋の船が自由に長江を行き来できるようになり、首都の建業(今の南京)まで一直線に進軍できました。その上、東呉の将軍・張悌(ちょうてい)が連れていた3万の兵も、晋軍に挟み撃ちにされて全滅してしまい、首都を守る手段がなくなってしまいました。

西晋はしっかり準備していた

一方、西晋は計画的に動いていました。羊祜(ようこ)、杜預(とよ)、張華(ちょうか)といった頭のいい人たちが戦略を立てていました。また、すでに蜀漢を倒していたので、東と西の両方から東呉を攻めることが可能でした。279年には六つの方面から合計20万人以上の兵を動かし、一気に東呉を襲いました。特に晋の皇帝・司馬炎は長い間じっくり準備を進め、ちょうどいいタイミングで総攻撃をかけたのです。

結論

東呉の負けは、ただ戦場で負けただけではありません。王の悪いやり方、守りの甘さ、そして敵のしっかりとした準備という三つの問題が重なって起きた結果です。孫皓の政治がひどかったため、兵士も民もやる気をなくし、長江の守りも簡単に破られて敵が首都まで来てしまいました。その一方で、西晋は人数も戦い方も優れていて、勝てる状態が整っていました。つまり、東呉は「中から腐って、外からたたきつぶされた」のです。