
『三国志演義』で有名な諸葛亮が「祁山に6回出兵した」という話は、日本をはじめ多くの国でよく知られていますが、これは本当に起きたことなのでしょうか。
「六出祁山」とはどんな話?
「六出祁山」とは、蜀の丞相・諸葛亮が魏を倒すために、祁山(今の中国・甘粛省西和県あたり)から6回も軍を動かしたという物語です。この話は明代につくられた小説『三国志演義』によって広まり、諸葛亮の忠誠心やあきらめない姿として今でも人気があります。しかし、正史『三国志』には「六出祁山」という言葉も、そのようなまとめ方もまったく出てきません。
正史に書かれている北伐:実際は何回あった?
『三国志』や『資治通鑑』によると、諸葛亮が魏に対して行った攻め込みは次の5回です。
1回目は228年春で、祁山方面に向かいました。天水・南安・安定の三つの郡が一時的に蜀に味方しましたが、馬謖が街亭で負けたため、結局引き返さざるを得ませんでした。
2回目は同年の冬で、散関から陳倉を囲みましたが、守将の郝昭が強く守りきったため食料がなくなり、撤退しました。
3回目は229年で、武都と陰平の二つの郡を手に入れることに成功しました。
4回目は231年で、再び祁山方面に出兵し、司馬懿と戦ってある程度の成果を上げましたが、補給が続かずまた引き返しました。
5回目は234年で、五丈原まで進軍しましたが、司馬懿とのにらみ合いが続く中で病気になり、そのまま亡くなりました。
つまり、諸葛亮が実際に魏に向けて行った作戦は全部で5回であり、そのうち祁山に関係するのは最初と4回目の2回だけです。一部の資料では、魏軍が南下しようとしたが戦わずにひいた事例を含めて「6回」と数えることもありますが、それでも「すべてが祁山から始まった」というのは間違いです。
なぜ「六出祁山」という話が広まったのか?
「六出祁山」という言い方は、『三国志演義』を書いた羅貫中の工夫によるものです。彼は、諸葛亮の悲しい努力や「運命に逆らおうとする姿」を強調するために、いくつかの北伐をまとめて、すべてを「祁山」につなげて描きました。その後、清代の学者・俞樾(ゆえつ)が『小浮梅閑話』という本でこの言葉を使ったことで、さらに一般に広まりました。小説の影響がとても大きかったため、今でも多くの人がこれを本当の出来事だと思っています。
日本の読者が知っておくとよいポイント
日本の三国志ファンの多くは、吉川英治の『三国志』や横山光輝の漫画『三国志』を通じて「六出祁山」を知ったと思いますが、これらの作品も『三国志演義』をもとにしているため、本当の歴史とは違うところがたくさんあります。本当のことを知るには、小説と正史をしっかり区別することが大切です。実際の諸葛亮は、物語に出てくるような奇策ばかり使う人ではなく、細かい計画を立てて行動する現実的な政治家・指揮官でした。
まとめ:本当は「5回の北伐」、小説が「六出祁山」
| 項目 | 正史『三国志』 | 小説『三国志演義』 |
|---|---|---|
| 北伐の回数 | 5回(7回という見方もある) | 6回 |
| 祁山を使った作戦 | 2回(228年、231年) | 全部6回が祁山から |
| 表現のしかた | 「北伐」や「出師表」に基づく記録 | 「六出祁山」として物語風にまとめられている |
結論として、「六出祁山」は本当の出来事ではなく、『三国志演義』の作り話です。諸葛亮が実際に魏に攻め込んだのは5回で、そのうち祁山に関係するのは2回だけでした。








