
張郃(ちょうこう)は曹魏の「五子良将(ごしりょうしょう)」に含まれています。
この名前が指しているのは陳寿が書いた『三国志』魏書第十七巻の合伝に載っている張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人であり、伝の最後には「太祖が武功を打ち立てたときに当代の優れた将のうち五人が筆頭だった」という意味の「太祖建茲武功,而時之良将,五子為先」という総評が書いてあって、この文こそが「五子良将」という名前の直接の元になっており、張郃はその四人目に名前が挙がっています。
「五子良将」とは何か?出典をちゃんと知る
出典は『三国志』魏書十七「張楽于張徐伝」
五子良将というのは曹操からもらった正式な称号ではなくて、陳寿が五人を一つの合伝にまとめたことが始まりで、後の時代の人たちがこのまとめ方を見て「五子良将」という呼び方を広めていったものです。
| 武将 | 字 | 陳寿が書いた特徴 |
|---|---|---|
| 張遼 | 文遠 | 合肥で八百騎を使って孫権の十万の大軍を追い返した |
| 楽進 | 文謙 | 勇猛さで名前が知られるようになった |
| 于禁 | 文則 | 軍の規律がとても厳しく整っていた |
| 張郃 | 儁乂 | 戦い方のうまい変化で褒められている |
| 徐晃 | 公明 | 樊城の包囲を解いて「周亜夫みたいだ」と言われた |
陳寿は張郃のことを「張郃以巧変為称」、つまり状況に合わせたうまい立ち回りで知られていると書いていて、これは五人の中でも彼だけの特別な評価になっています。
間違えやすいところ:「五虎大将軍」との違い
蜀漢の「五虎大将軍」(関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠)と五子良将は全く別のもので、五虎大将軍の方は『三国志演義』で目立たせられた呼び名ですが、五子良将の方は正史『三国志』にちゃんとした根拠があるので、歴史的な信頼性はこっちの方が高いと言えます。
張郃の基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 張郃(ちょうこう) |
| 字 | 儁乂(しゅんがい) |
| 出身地 | 冀州河間郡鄚県(今の河北省任丘市) |
| 亡くなった年 | 231年(戦場で死去) |
| 仕えた主君 | 韓馥 → 袁紹 → 曹操 → 曹丕 → 曹叡 |
| 最後の役職 | 征西車騎将軍 |
| 爵位 | 鄚侯 |
| 諡号 | 壮侯 |
張郃が五子良将に入ったわけ:三つの大きな手柄
1. 官渡の戦いでの投降(200年)
もともと袁紹側にいた張郃は、官渡の戦いで曹操が烏巣の兵糧庫を襲ったときに主力での救援を提案したものの郭図の反対で断られてしまい、意見を聞いてもらえないだけでなく讒言される危険も感じたので高覧と一緒に陣中で曹操に降り、曹操はこの決断を「微子が殷を去って韓信が漢に帰ったようだ」とすごく喜んで偏将軍・都亭侯にし、この投降が袁紹軍が崩れるきっかけになりました。
2. 漢中防衛戦での軍の立て直し(219年)
定軍山の戦いで大将の夏侯淵が劉備軍に殺されて魏軍がパニックになったとき、郭淮たちが張郃を臨時の大将に推して、張郃はバラバラになりかけた軍をまとめて撤退に成功させ、伝には「軍の気持ちが落ち着いた」と書いてあり、この負けそうな状況を立て直す力が五子としての証拠になっています。
3. 街亭の戦いで馬謖を破ったこと(228年)
諸葛亮の第一次北伐のときに張郃は街亭(がいてい)で蜀の先鋒だった馬謖と戦い、馬謖が山の上に陣を置くというミスをしたのに対して水道を断って包囲して全滅させた結果、隴右三郡の反乱も収まって諸葛亮の最初の北伐は失敗に終わり、張郃はこの働きで食邑四千三百戸を増やしてもらいました。
五人の中での張郃のポジション
陳寿が伝を書いた順番は張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃となっていますが、曹操が生きていた頃は仮節をもらった時期や将軍号から見ると張遼・楽進・于禁の三人の方が張郃と徐晃より上でした。
ところが楽進は病気で亡くなり、于禁は樊城で関羽に降って評判を落とし、張遼も222年に病死してしまったので、曹叡の時代になると張郃が魏の最前線を守るただ一人の古参となり、蜀漢の諸葛亮が一番怖がった魏の将軍がこの張郃だったのです。
張郃の最期:木門道で矢に当たって死ぬ(231年)
諸葛亮の第四次北伐の撤退戦で追撃を命じられた張郃は、『魏略』によると「軍を帰すべきで追うべきではない」と反対したのに司馬懿に無理やり進まされ、木門道(もくどうどう)で待ち伏せしていた敵の矢に当たって戦死し、諡は壮侯となりました。
補足:この話から「張郃の死は司馬懿がわざとやったのでは」と後世に言われることがありますが、正史だけからははっきりわからず、あくまで推測の範囲です。
FAQ:張郃と五子良将についての質問
Q1. 張郃は本当に五子良将の一人ですか?
A. はい、『三国志』魏書十七の「張楽于張徐伝」に張遼・楽進・于禁・徐晃と一緒に載っていて、陳寿の「五子為先」という総評がそのまま根拠になっています。
Q2. 張郃はどう読みますか?
A. 日本語では「ちょうこう」と読み、字(あざな)の儁乂は「しゅんがい」と発音します。
Q3. 五人の中で張郃は何番目ですか?
A. 陳寿の伝の並びでは四番目ですが、これは厳密なランキングではなくて単なる記述順であり、曹操の頃は張遼・楽進・于禁より下でしたが、後半には事実上のトップになりました。
Q4. 降った将なのにどうして大事にされましたか?
A. 曹操は降ってきた将を実力で使う人だったので、五子良将のうち張遼・徐晃・張郃の三人が元の降将であり、張郃の投降は官渡の勝敗を決めるほどの功績として高く買われました。
Q5. 張郃を殺したのは誰ですか?
A. 231年に木門道で追撃している最中に蜀軍の伏兵が撃った矢に当たって亡くなり、『魏略』には司馬懿が無理に追わせたとも書いてあります。
まとめ
- 張郃は曹魏の五子良将の一人であり、これは歴史的事実として確かです。
- その根拠は『三国志』魏書十七の合伝の作りと陳寿の「五子為先」という総評にあります。
- 張郃の評価のポイントは「巧変」、つまり場面に合わせてやり方を自由に変えられる柔軟さにありました。
- 官渡での投降、定軍山後の軍の再建、街亭での馬謖撃破が三大手柄です。
- 231年に木門道で戦死し、魏の外姓武将のトップの時代は終わりました。
五子良将を知ることは曹魏の軍事の歴史を知ることと同じであり、張郃はその中でも最後まで生き残った大物として三国志の後半を支えた名将でした。








