
4世紀の終わりから5世紀の初めにかけて、中国は内戦や外敵のせいでとても不安定だったが、そんな中で身分の低かった武将・劉裕(りゅうい)が北府兵を率いて次々と敵を倒し、420年に東晋を終わらせて「劉宋」という新しい国を始めた。
東晋の終わりごろの問題:劉裕が活躍できたわけ
東晋(317–420年)の後半には、いくつか大きなトラブルがあった。まず、王氏や謝氏といった名家ばかりが政治を握っていて、普通の人や下級の士人たちは不満をためていた。その上、403年には有力な武将・桓玄が都の建康(今の南京)を奪って「桓楚」という国を作った。さらに、399年から411年まで続いた孫恩・盧循の反乱では、五斗米道を信じる人たちが江南全体で大規模な蜂起を起こした。こうした混乱のおかげで、劉裕のような身分の高くない人にもチャンスが回ってきた。
劉裕の勝ち進み方:北府兵を使って天下を手に入れる
もともと劉裕は、東晋の精鋭部隊である北府兵のただの兵士にすぎなかったが、いくつかの大事な戦いで実力を示していった。404年には京口(今の鎮江)で兵を起こして桓玄を倒し、晋安帝を元の地位に戻した。その後、409年から410年にかけては山東半島にあった南燕を攻めて滅ぼし、黄河より南の地域を取り戻した。410年から411年には江南で広がっていた盧循の反乱を完全に抑え込み、416年から417年には後秦を攻めて長安を落とし、一時的に洛陽と長安を奪い返した(これは第二次北伐と呼ばれる)。こうして多くの勝利を重ねたおかげで、劉裕は「宋公」、そして「宋王」として皇帝に匹敵するほどの権力を持つようになった。
政治の進め方と帝位の受け取り:東晋から劉宋へ変わる過程
劉裕は強い戦士であるだけでなく、しっかりとした統治もできた。彼は昔からの貴族の力をおさえ、九品中正制の影響を弱めて、能力のある人を役人に選ぶようにした。また、戦で疲れた江南の経済を助けるために農業を支え、税金も軽くした。さらに、地方の有力者や勝手に動く軍団の力を弱めて、自分たちで直接国を治めるようにした。こうして力を固めたあと、420年に晋恭帝から帝位を「ゆずられて」、「宋」(のちに劉宋と呼ばれる)を正式に始めた。都は引き続き建康のままでした。
最後に:乱れた時代を治めた普通の生まれの英雄
劉宋の始まりは、単に王朝が変わっただけではない。それは何百年も続いてきた貴族中心の政治が終わったことを意味し、実力があれば下の階層の人でも国を動かせるという大きな変化の始まりだった。劉裕の成功は、世の中が混乱しているときほど、「実際にやったこと」と「人々の支持」がどれだけ大切かをはっきりと見せている。

