明の孝宗が一夫一妻を貫いたことは、なぜ歴代皇帝の中でこれほど稀なのか?

明の孝宗が一夫一妻を貫いたことは、なぜ歴代皇帝の中でこれほど稀なのか?

中国の歴史では天皇や皇帝はたくさんの女性を持つのが当たり前だったけど、明代の第九代目にあたる弘治帝こと朱祐樘だけは正妻の張氏以外に誰も側室として迎え入れずに一生を終えたのであり、統一された国を治めたトップとしてはこういうケースは他に見つからないほど珍しいことなのです。

みんなが後宮というシステムを普通だと思っていた時代にどうして彼だけが違うやり方を貫けたのかというと、それは彼の個人的な事情とその時代の仕組みの両方が関係しているので、このページではその二つの面からなぜそんな特別なことができたのかをわかりやすくお話しします。

弘治帝ってどんな人だったの?

項目 中身
名前 朱祐樘
王様だった期間 1487年から1505年までの18年間
元号 弘治
生きた年 1470年から1505年までで36歳で亡くなった
お嫁さん 孝成敬皇后張氏という人だけ
子ども 武宗朱厚照と早くに亡くなった蔚悼王朱厚煒と太康公主
評判 「弘治中興」と呼ばれるくらい良い政治をした時代を作った

王様になってからは悪い家臣を追い出して劉健や李東陽や謝遷といった優秀な人たちを大切な仕事につけたし、プライベートでも贅沢をせず真面目に過ごしたので、後の時代の勉強した人たちからは「昔の偉い王様といえば漢の文帝と宋の仁宗とこの弘治帝の三人だけだ」とすごく褒められました。

「奥さんが一人だけ」って本当はどういうこと?

ルール上は王様の正妻はいつでも一人だけと決まっているんだけど、ここで大事なのはその後ろに控えている側室という立場の人たちがいるかいないかということであり、弘治帝がすごいのは妃嬪と呼ばれる側室のグループ自体をまるごとなくしてしまったという点にあります。

  • 貴妃から才人に至るまでどんなランクの女性にも称号を与えなかった
  • 身近に仕える宮女を気に入って地位を上げるようなことも全然しなかった
  • 子供は全員が張皇后との間にだけ生まれた
  • 夫婦は毎日同じ部屋で一緒に過ごしていて、まるで一般庶民の夫婦みたいな暮らしをしていたと言われている

何千人もの女性を抱えていた唐の玄宗や清の康熙帝と比べてみれば、彼のやり方がどれほど変わっているかはすぐにわかります。

昔の王様たちがたくさんの妻を持たざるを得なかった三つのわけ

弘治帝の選んだ道がどれだけ大変だったかをわかるためには、他の王様たちが従わなければならなかった大きなプレッシャーについて知る必要があります。

ルールとしての決まり事

古い時代のきまりでは、王様には「三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻」という数の女性を用意するのが理想だとされていて、後宮を整えることは個人の趣味ではなく国の大切な儀式の一部だと考えられていました。

跡継ぎを残すための現実的な必要

次の王様がいなくなれば国が終わってしまうので、小さな子供がよく亡くなっていた当時は、たくさんの女性から多くの子供を得ることが王様に課せられた一番大事な仕事であり、家来たちが「もっとたくさん子供を作りなさい」と言うのは当たり前のことで、これを断った王様はほとんどいませんでした。

味方を増やすための手段

結婚は力のある一族と仲良くなるための道具でもあって、後宮はプライベートな場所であると同時に政治的な役割を持った組織でもあったのです。

弘治帝が一夫一妻をやり通せた五つの理由

① 小さい頃のひどい思い出:万貴妃のいじめとお母さんの死

一番大きな原因は、彼が生まれた時の辛い出来事にあります。

実の母親である紀氏は広西の少数民族の出身で戦いに巻き込まれて宮中に連れてこられた女性だったのですが、憲宗である父王に気に入られて赤ちゃんを宿したものの、当時後宮を仕切っていた万貴妃の怒りを買ってしまい、自分の子を亡くしていた万貴妃は他の女性が妊娠することを許さなかったので紀氏にも堕胎を無理強いしました。

命令された侍女はかわいそうに思って「お腹の腫れ物です」と嘘をついて守ったおかげで、紀氏は寒い部屋に追いやられながらもひそかに出産することができ、生まれた男の子は宦官の張敏や廃后の呉氏たちが米粉を食べさせながら六年間も隠し続けました。

五歳になった時、お母さんの紀氏は二十五歳という若さで急に亡くなってしまい、これは万貴妃による毒殺ではないかと強く疑われる事件でした。

後宮の中の嫉妬や権力争いが、お母さんの命と自分自身の存在まで奪おうとしたというこの記憶こそが、「側室を持たない」と固く決心するきっかけになったのです。

② 張皇后との固い信頼

成化二十三年(1487年)にまだ皇太子だった頃に張氏が妃に選ばれたのですが、二人は王様になる前から辛いことを一緒に乗り越えてきていたので、弘治帝にとって彼女は他に代えられない心の支えであり、王様になってからも夫婦の仲はとても良く、歴史書には「王様と后はいつも一緒に起きて一緒に寝て、普通の夫婦みたいだった」と書かれています。

愛情に基づいた強い絆があったからこそ、政治的な計算で女性を増やそうという気持ち自体が湧かなかったのです。

③ 厳しい勉強で立派な人格ができたこと

六歳で次の王様候補に選ばれてからは、正しい儒家の教えを徹底的に教え込まれたので、勤勉さや優しさや節制を大切にする姿勢は政治にもプライベートにも一貫しており、「女性に溺れない」という理想的な王様の姿を自分で実践したとても珍しい人でした。

④ 側室を勧められても断れるくらい政治が安定していたこと

王様に側室を持つよう求める一番大きな外からの圧力は家来たちからのお願いなのですが、弘治帝の時代には劉健や李東陽といった良い家臣が助けてくれて、皇太子である後の武宗も比較的早く生まれてくれたので、跡継ぎの問題が落ち着いたおかげで「妃を追加してください」という声を避ける余裕が生まれ、弘治帝はこの手のお願いに一切応じずに生涯を終えました。

⑤ 節約の方針と合っていたこと

王様になった直後にコネで役職を得た二千名以上をクビにして宮廷の贅沢を厳しく取り締まったのですが、後宮を大きくしないことはこの「お金を節約する政治」の流れの中にある自然な結果でもあり、公的な方針と私的な生活が矛盾していなかったことが、弘治中興への信頼を支えていたのです。

引き換えにした跡継ぎの危機

この選択にははっきりとした危険もありました。

張皇后との間には男の子が二人生まれたのですが次男の朱厚煒は幼くして亡くなってしまい、残された唯一の皇子である朱厚照(武宗)が1521年に子供を残さずに亡くなると、王位の系統は従弟の朱厚熜(嘉靖帝)へと移ることになり、「大礼の議」と呼ばれる激しい政治的な争いが起きてしまいました。

育った皇子が一人だけだったことが、結果として明代中期の王家の系統が途絶えそうになる危機を招いたのであり、昔の王朝が後宮を大きくすることを「保険」として重視した理由がここにはっきりと現れています。

同じ時代の王様たちとの比べっこ

王様 後宮の様子 特徴
憲宗(お父さん) 万貴妃がやりたい放題 嫉妬のせいで跡継ぎが少なくなった前例
宣宗 孫皇后を特に可愛がった 側室は何人かいた
唐の玄宗 妃嬪が数千人規模 後宮の典型的な例
弘治帝 張皇后だけ 統一王朝でたった一つの例

お父さんの時代には万貴妃の嫉妬が跡継ぎを脅かしていたのですが、息子の弘治帝が全く逆の道、つまり後宮を極限まで小さくする方針を選んだのは、お父さんの時代の失敗を一番近い場所で見ていたからなのです。

みんなのギモン

Q. 本当に側室がゼロだったの?
A. 『明史』などの公式な記録を見ると、弘治年間に妃嬪の称号を与えた記録はないので、「他に女性はいなかった」というのが定説です。

Q. 他の王様はどうして同じことをしなかったの?
A. 跡継ぎの確保・ルールの遵守・政治的な同盟という三つのプレッシャーがあったからで、これらを全部断れた王様は弘治帝以外にはほぼいません。

Q. 張皇后の晩年はどうだったの?
A. 旦那様が亡くなった後は皇太后として大切にされましたが、嘉靖帝の時代に親戚の張氏が罰せられるなど不遇な最期を迎え、1541年に亡くなりました。

Q. 「弘治中興」って具体的に何のこと?
A. 弘治帝が治めた十八年間をまとめた言葉で、悪い家臣を追い出し・良い家臣を使い・お金を節約することで、明代中期に安定と豊かさをもたらした時期として高く評価されています。

最後に

弘治帝の一夫一妻が歴史上で唯一のものとなった理由は、単なる夫婦の愛情だけでは説明しきれないものです。

  1. 万貴妃の迫害とお母さんの死という小さい頃の傷跡
  2. 張皇后との王様になる前からの深い絆
  3. 儒学の勉強で培われたしっかりした人格
  4. 跡継ぎが安定したことによる外からの圧力の回避
  5. 節約政治との方針の一致

これら五つの要素が偶然揃ったからこそ、後宮という巨大なシステムの中で一人の王様だけが例外となれたのであり、同時に皇子が少なかったことで武宗が亡くなった後に系統の危機を招いたという事実は、「一夫一妻の王様」がどうして二度と現れなかったのかをはっきりと物語っているのです。